その3  
西教寺
西教寺と宗祖真盛上人(1443~1495)
宗祖円戒国師慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)上人は、伊勢国一志郡小倭荘大仰の里で出生。紀貫之の一族で14歳で出家、19歳の時に比叡山に上り慶秀和尚に師事、20年間山に籠もり天台の学問を究めました。当時は応仁・文明の乱が続く下克上の時代で、上人は教化指導者として深く内省し、文明14年黒谷青龍寺に入り日課六万辺の称名念仏を修め、社会の秩序を正し世人に安心立命を与えるには、道義を強調する円戒と弥陀本願の念仏以外には無いことを悟り、文明18年(1486)西教寺に入寺し朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行い、西教寺を戒称二門不断念仏の根本道場としました。以来、その足跡は江州・越前・伊賀・伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなっていきました。明応4年(1495)伊賀西蓮寺にて病に倒れ、無欲清浄専勤念仏を遺誡として、53歳で遷化しました。元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当山も災禍を被りました。その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。  
 本堂(重要文化財、江戸時代)
総欅入母屋造。江戸時代 元文4年(1739)に上棟落成。用材は紀州徳川家からの寄進、正面の欄間(十六羅漢)や須弥壇はすべて欅の素木造で江戸初期の特色を表す豪華な装飾が施されています。ご本尊は、重要文化財の丈六の阿弥陀如来(平安時代・定朝様式)が安置されています。
 唐門: 大師殿の正面,東面して建つ1間1戸の四脚門で,両側に折曲がりの築地塀が延びる。屋根は檜皮葺で,入母屋造・前後軒唐破風付。組物は三斗組と簡素だが,虹梁上に配された龍や獅子など多彩な彫刻,彫物欄間や板欄間,精緻な飾金具など,華やかな造形である。
 宗祖殿: 明治11年真盛宗別派独立に伴い,本堂南の一段低い地に建設された。入母屋造・桟瓦葺,正面軒唐破風付で,丸柱・舟肘木の軸部,疎垂木・木舞打の軒廻り,擬宝珠高欄付の縁など,格式の高い住宅建築の意匠になる。内部の小組格天井や筬欄間なども繊細である
比叡山生源寺
 伝教大師生誕の地・生源寺の創建年代は延暦年間(782 - 806)である。日本天台宗の開祖である最澄によって、父・三津首百枝の居館跡であり、自らの生誕地に建立された。本尊は慈覚大師円仁作の十一面観音、延暦寺西塔の総里坊格の寺院であった。元亀2年(1571) 織田信長によって行われた比叡山焼き討ちで全焼した。現在の本堂は文禄4年(1595)に詮舜によって建立され、宝永7年(1710)に改築されたものである。江戸時代には本寺、末寺などすべてを含めた一山の寺務を統括する重要な寺院であった。最澄の産湯に使われたとされる産湯の井戸がある。また、生源寺の西隣にはかつて鎮守社であった大将軍神社がある。
生源寺周辺の街並み