10月7日 二日目  その1 歩数  33,686 歩  距離  20.6km 
日吉神社
日吉大社
  日吉大社は、霊峰比叡を背にして、びわ湖を一望できる絶景の地にひろがりをみせています。その広大な神域は、うっそうたる樹林におおわれ、多くの社殿とともに神々しい雰囲気をかもしだしています。それは、古くから日吉大社の境内そのものが神々の集合場所であり、各社殿は、それら神々の鎮座される唯一の社として祀られてきたからでしょう。昔から、境内鎮座社は108社といわれてきたほどです。 現在では、日吉大社の社殿のほとんどが国宝または重要文化財に指定されており、貴重な文化遺産として保護されています。また、神代から伝わる神社史をひもといてみても数々の歴史遺産を知ることができます。こうして、われわれ現在人に温故知新の尊さを教え、古くから厚い信仰にささえられてきた日吉大社は、神々の偉大さを顕現するかのように、いろいろな信仰の形が伝えられ、今も残っています。魔除けや厄除け、鬼門除けの信仰は、京都御所の鬼門・猿が辻や江戸城(今の皇居)の鬼門、赤坂などの守護のあらわれであり、また日枝神社や日吉神社は、全国各地の城郭の鬼門を守護する意味で祀られたという歴史もあります。また家内安全の信仰は、「日々吉(ひびよし)」とする日吉大社の社名にもあらわれていますし、商売繁盛の信仰は、「日本三大大黒」と称される当社の西本宮御祭神に仰ぐことができます。一方、日吉大社の歴史は、古く神代、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と続く各時代の胎動・発展期に深くかかわってきました。室町時代の強訴の神輿や信長の比叡全山焼討ち、秀吉の日吉三橋寄進、家康の日吉東照宮建立など枚挙にいとまがないほどです。
 日吉大社山王二十一社一覧
西本宮楼門
  桜門の四隅の棟木に神猿の木像があります。四方魔除けの猿、棟持ち猿と呼ばれ、一家の四方の魔を祓い去ることによって棟木が上る(繁栄する)ということを教えています。日光東照宮の三猿の親猿でもあります。4月14日の山王祭には、重厚さと大きさを誇る神輿が七基、拝殿におさまります。豪壮な祭典の檜舞台となる建物です。  
廃仏毀釈は日吉神社から始まった
  明治維新のスローガンは王政復古。仏教が伝来する前にあった天皇中心の理想の政治の復活を要求した。1868年3月28日 新政府は神仏分離令即ち神と仏を分けることを発令した。そして、神仏習合を禁止した。これには理想の神道を復活させようとする意図がありました。京都神祇事務局は「神道に仏教が混じってしまったため純粋の神道が汚されてしまった。仏教は棄てよ」と主張した。3日後、日吉大社に強硬派の神職たちが押し寄せ、本殿の鍵を引き渡すように要求し、拒否されると本殿に乱入し、下殿に祭られていた、仏像や経を放擲して、ついには火をつけて焼き払ってしまった。この日だけで124点の仏像や経本は破壊、焼却された。廃物希釈の始まりです。比叡山中心だった山王祭に僧侶が関わることを禁止、祭りで担がれる神輿に飾られる神鏡の背面に刻まれた「日吉山王客人(まろうど)大権現」と書かれた印字の山王と大権現の文字は削り取るなど仏教色は徹底的に排除されました。この行動の流れは日本全国に広がり、日本中の神社や寺は大きく変わりました。仏教と切り離された神道は天皇を中心とする国家神道となり、1945年終戦まで続きました。
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  2017年4月14日 日吉大社の山王祭、西本宮例祭において比叡山の最高位天台座主が多くの僧侶を伴って、日吉大社に出向いて、神を拝み、御経を奉げる儀式が復活した。以降、毎年行われている。禁止されていた神仏習合が少しずつ復活している。