その1  
護王神社
   奈良時代・称徳天皇の御代のこと。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が法王となって絶大な権力を振るっていました。やがて道鏡は、天皇の位も奪おうと考え、「『道鏡を天皇にすれば天下は平和に治まる』と宇佐八幡よりご神託(神様のお告げ)があった」と天皇にウソを言います。天皇は、ご神託が本当なのか迷いました。そこで、和気清麻呂公を呼び、九州の宇佐八幡へ行って確かめてくるよう命じました。清麻呂公は宇佐八幡へおもむき、ご神前に出て「真意をお教えください」と叫びました。すると、光り輝く宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。道鏡のような無道の者は早く追放してしまいなさい」とご神託を下されました。  清麻呂公は都へ戻り、大神のご神託を天皇に報告しました。野望をくじかれた道鏡は激しく怒り、清麻呂公の足の腱を切った上、大隅国(鹿児島県)への流罪としてしまいます。さらには、大隅国へ向かう清麻呂公を襲わせるために刺客を放ちました。足の腱を切られ、立つことすらできなくなった清麻呂公ですが、皇室を守った大神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることにしました。そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、どこからか三百頭ものいのししが現れました。いのししたちは清麻呂公の輿(こし=乗り物)の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(約40km)の道のりを案内してくれたのです。清麻呂公が宇佐八幡での参拝を終えると、いのししたちはどこかへ去っていきました。不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていました。 和気清麻呂公と護王神社イラスト  一年後、称徳天皇の崩御によって、道鏡は関東へ左遷されます。都へ呼び戻された清麻呂公は、時の天皇の信頼を得て活躍し、晩年まで世のため人のために尽くしました。清麻呂公の立派な人柄と、彼を守ったいのししのお話は、後世まで語り継がれることとなりました。清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられ、今も清麻呂公を護り続けています。  (護王神社由緒より)
京都御所
 正面、蛤御門。右手大きなムクの木がある公家・清水谷家跡、蛤御門の変のとき長州藩遊撃隊長 来島又兵衛はこの付近で討死した
  紫宸殿は本来天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つであったが、平安中期以降、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も檜皮葺木造の宮殿建築、紫宸殿で行われるようになりました。内裏は鎌倉時代に火災にあって以後、再建されることはなかったが、紫宸殿は臨時の皇居である里内裏で再建され、現・京都御所にも安政2年(1855)古式に則って再建されました。 その構造は正面九間の母屋の四方に庇を巡らせ、さらにその外側に高欄の設置された簀子(みす)を配しており、柱、壁、檜皮葺の屋根など、日本的な色合いの美しさを醸し出しています。母屋と北庇との境は賢聖障子(げんじょうのしょうじ)と呼ばれるパネル状の押障子で仕切られており、南庇中央には18段の階(南階)があります。 そして、母屋中央には高御座(たかみくら)が置かれています。すなわち、天皇中心史観では、今でも日本の中心はここ京都御所の紫宸殿なのです。紫宸殿の南庭には東に桜、西に橘が植えられており、それぞれの近くに左近衛と右近衛が配陣したため、左近の桜、右近の橘と称されています。
近衛邸跡