鎌倉街道上道 その1  府中~小野路 2016.07.08 
分倍河原古戦場跡碑
  鎌倉時代後期の元弘3年(13335月、新田義貞は、上野国生品(いくしな)神社にて鎌倉幕府を討幕すべく挙兵しました。鎌倉上道を南下しつつ、抵抗する幕府軍を打ち破りながら進軍します。多摩川付近の分倍河原の地で迎え撃つ北条泰家率いる幕府の大軍と激しい戦いになりました。しかし勢いに乗る新田軍は苦戦のすえ、これも撃破して新田軍が勝利をおさめます。そして、援軍も加えて20万の大軍に膨れ上がった新田勢は、一気に鎌倉へ押し寄せました。
中河原の渡し
  江戸時代、多摩川は現在より北側の 立川段丘崖線の下, 現在の市川用水のある付近を 流れていました。また, 現在の多摩川流域は浅川でしたので, この2つの川の間にあるところから 中河原の名が起ったといわれています。鎌倉街道の関戸橋が 昭和12(1937)に出来るまでは, 中河原の渡し場があり, 冬の渇水期には仮橋が設けられていました。明治24年当時の記録では, 本流の渡船の川幅は 50(90m), 支流は2本あり いずれも架橋渡しで, その川幅はそれぞれ 15(27m), 11(20m)でした。本流の渡船渡しでは, 平水ならば 舟夫1人で足りましたが, 平水より1(0.3m)増すごとに 1人の増員が必要だったようです。渡し場では, 通行人から渡船と架橋と別々の渡し賃を取っていました。関戸橋の袂に碑が建っております。
関戸地区
霞ノ関南木戸柵跡
  多摩市の熊野神社参道に位置する「霞ノ関南木戸柵跡」は、建歴3(1213)に鎌倉街道上道に設けられた関所の柵跡とされています。和田合戦に関連して滅亡した豪族・横山党の残党に備えて設けられた軍事的な関所であったといわれています。のちに北条一族が防衛上の要所として関所を設置したようで、この辺りの関戸という地名の由来になっております。また、千代田区、いや日本の政治の中枢となっている霞ヶ関も鎌倉中道に設けられた関所であった所と云われています。  
  鎌倉時代の城跡の斜面がそのまま公園になったようで城跡といっても石垣や建物の跡はなく、自然な樹木や草花たちが目の前に迫っています。多摩丘陵の自然の景観が残されている雑木林という野趣にあふれた公園です
厄除地蔵尊  ・ 麦花塚
厄除地蔵尊 
●地蔵菩薩像(左) 寛文8年1668)に建立。高さ130cm。年号の他に「武州柚木郡宇龍村動向17人」の銘文が刻まれている。市内でも2番目に古い地蔵石仏である。

阿弥陀如来像(右)は寛文13年(1673)に建立。高さ80cm。年号の他に「武州多磨郡乞田宇龍村 奉造寒念併同行8人 願主安斎」の銘文が刻まれている。市内で最も古い阿弥陀如来石仏である

麦花塚(ばっかつか)
  高さ125cmの石碑です。表に貝取出身の麦花という家人の和歌などが、裏には漢詩2編と多摩・町田市域の歌人30名の和歌が刻まれている。明治14年(1881)に麦歌自身が彫刻し、建てたものである。麦歌は本名を浜田助左衛門といい、貝取村で「乞田鍛冶」という屋号を持ち、刀鍛冶をする傍ら、和歌・俳句を好んでいた。明治初期における村内の文芸活動を知ることが出来ます。

関屋の切り通し付近
町田市小野路付近