中河原の渡し
江戸時代、多摩川は現在より北側の 立川段丘崖線の下, 現在の市川用水のある付近を 流れていました。また, 現在の多摩川流域は浅川でしたので, この2つの川の間にあるところから 中河原の名が起ったといわれています。鎌倉街道の関戸橋が
昭和12年(1937)に出来るまでは, 中河原の渡し場があり, 冬の渇水期には仮橋が設けられていました。明治24年当時の記録では, 本流の渡船の川幅は 50間(約90m), 支流は2本あり いずれも架橋渡しで, その川幅はそれぞれ 15間(約27m), 11間(約20m)でした。本流の渡船渡しでは,
平水ならば 舟夫1人で足りましたが, 平水より1尺(約0.3m)増すごとに 1人の増員が必要だったようです。渡し場では, 通行人から渡船と架橋と別々の渡し賃を取っていました。関戸橋の袂に碑が建っております。
|
|