祥雲寺
 祥雲寺は渋谷区第一の巨刹であり、江戸時代初期に筑前福岡藩第2代藩主黒田忠之により江戸に於ける黒田家菩提寺として創建されました。当山は、父・長政が生前帰依していた京都大徳寺の住持、竜岳宗劉(そうりゅう)和尚により開山されました。江戸期を通じて関東に於ける同派最高位の寺院で福岡藩や黒田家に縁のある数々の大名家や武家の墓所となっています。
 境内の墓所には屋根で覆われた黒田長政の6メートル程の巨大な墓標があり、その一角に医道曲直瀬流 曲直瀬玄朔道三(まなせげんさくどうさん)の墓があります。
曲直瀬道三は安土桃山時代・江戸時代の医師。幼少の頃、両親を失ったため、母の兄である曲直瀬道三に養育され、天正9年(1581)にその孫娘を娶(めと)って養嗣子(ようしし)となり、道三流医学を皆伝された。天正11年(1583)には、卒中で倒れ意識を失った正親町(おうぎまち)天皇の治療に成功し、朝廷の信頼と名声を得て、天正14年(1586)に僧位の最上位の名称・法印へと出世しました。天正15年(1587)3月、豊臣秀吉の命で九州平定に出兵中の罹病(りびょう)した長州藩主・毛利輝元を治療して、快癒させています。文禄元年(1592)に朝鮮出兵のため、秀吉に従って名護屋城へ赴いた際、輝元が再び病となったが、再び快癒させている。文禄4年(1595)、この年、天皇の診察より、秀次の診察を優先したという天脈拝診怠業事件」が起こりました。この一件で関白豊臣秀次は秀吉から切腹の命を受けてしまい、玄朔も連座して常陸国へ送られ佐竹義宣預かりとされてしまいました。しかし、慶長3年、赦免されて帰洛してからは、豊臣秀頼の番医として復権するとともに豊臣秀吉の最期の治療にも臨んでいます。秀吉の死後は後陽成天皇の治療のため皇室へも再出仕するようになりました。慶長13年(1608)には、第2代将軍秀忠の療養のため江戸に招かれ屋敷宅を与えられた。この屋敷には、数百名の若い医師が、医学を学びに来て出入りしていたといわれています。この頃玄朔は2代目道三を襲名していたため、この邸宅の北側の長堀は道三堀と呼ばれていて、明治42年(1909)に埋め立てられるまで、多くの舟が往来する堀割でした。道三は朝廷と幕府の典医として仕えたことで、ひんぱんに京都と江戸を往復しています。玄朔は秀次事件を契機に曲直瀬一門の結束に留意し、聖徳太子が作ったという施薬院(せやくいん)派を頂点に強化していきました。徳川幕藩体制の確立過程では玄朔を中心に奥医師が構成され道三流の医師が幕府医療界を主導していく要因となりました。寛永8年(1631)83歳で没す。
祥雲寺 本堂 曲直瀬玄朔(道三) 墓
 
今回、散策コースのほど近いところに江戸時代の名医と呼ばれた杉田玄白、曲直瀬玄朔二人の墓所がありましたので、紹介方々立ち寄りました