和気清麻呂像

和気清麻呂
奈良朝期末の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱で天平神護一年(765)右兵衛尉となり、姉広虫(ひろむし)とともに信任を得ていました。神護景雲三年(769)事件が起きました。九州豊前国の大宰の主神(かんづかさ)が朝廷に、「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)をもたらしたのです。女帝の孝謙天皇は大いに驚き、神意を確かめるために使いを出すこととなり、その役に清麻呂が選ばれました。宇佐八幡宮から帰った清麻呂死刑を覚悟で、先のお告げとは全く反対の「道鏡を除くべし」という内容を神意として言上しました。道鏡は怒り、清麻呂を大隈へ、姉広虫も
備後へと流刑にしたのです。つまり、道鏡が皇位をうかがった時、その野望を挫いたのです。清麻呂は配流されましたが、天皇の死後、道鏡が失脚したことで、朝廷に復帰しました。光仁・桓武天皇からも深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しました。
この像は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立され、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。