相良城趾と界隈
相良城趾と田沼家
 宝暦8年(1758) 相良藩主となった
田沼意次は、10年後の明和5年、大規模な築城に取り掛かった。
材木が寄進され、萩間川に橋が架けられ、東海道に通じる田沼街道を整備して、多くの職人も送り込まれて城は12年目に完成した。現在の相良史料館辺りが本丸で、三重の堀を巡らした壮大華麗な景観であったという。意次は平田寺をはじめ神社仏閣に寄進した。築城後はさらに街道の道幅を広くして、町全体の整備に取り掛かった。萩間川の河口「相良湊」は天然の良港で遠州地方で産出された物資の積み出し港であり、相良は経済・文化の中心地として繁栄を高めた。しかし、この繁栄も、将軍家治が死去して、その庇護で幕閣の中心にあった意次は老中職の失脚と所領の没収という過酷な裁定を受け、終焉を迎えた。意次の後、幕閣を差配した
松平定信は、意次の足跡を消し去ろうとするように、相良城を取り壊した。意次の後、田沼家は東北の一角で小藩を治めていたが、天明7年(1823)、孫の田沼意正が相良藩主として復権、帰封したが、意尊おきたか 意次の曾孫)のとき上総小久保に転封され、そこで明治維新を迎えた。
 田沼意次は、将軍家治の相手をして、かなりの棋力を備えていたと言われています、
上の写真は意次が作った詰め将棋です。詰められますか?因みに、将軍家治は
日本将棋連盟から認めれてている高段者とのことです。
遠州相良の地には、古くから塩田があり、その塩は田沼意次が整備させた「田沼街道」を通じて、東海道を経由し、京都や江戸そして信濃やその先、越後にも運ばれていました。また、遠相良の塩は、塩分が多く、品質が高いことから「相良の白金」とも呼ばれ、幕府直轄の塩業でもあったことから、価値が高く、塩の道は栄えました。 


       

                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています