古河庭園、旧渋沢邸、王子神社
  2021年12月15日(水)快晴。 今回の「道連れ散策」は、表題の都内北区の神社・仏閣・公園めぐり実施です。
お供は、大学時代の友人、斉藤惣一氏。彼は静岡市在住ですが、都内に所用で10日間ほど滞在し、帰郷する本日
都内名所めぐりしたいとの要請を受け、実施することになりました。集合場所は、JR山の手線 田端駅。同駅
から王子駅に至る間の見所を散策することになりました。最初は、駅前にある、田端文士村記念館からスタート。
円勝寺
  円勝寺は、弘安9年(1286)に開山した古刹で、慶長年間に寺領五石の朱印状を賜った御朱印寺でした。当寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があります。伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となり数寄屋頭を務めました。数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にあり、その職務は数寄屋坊主を指揮して御三家や大名などの茶事を取り扱うことでした。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していた事から、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧 (治郷)などが輩出しました 
 大龍寺
  真言宗霊雲寺派の大龍寺は、古くは不動院浄仙寺と号し慶長年間(1610)に創建されましたが、天明年間(1785)頃に大龍寺と改称しました。別名子規寺とも呼ばれ、俳人正岡子規の墓が竹林を背にしてあり、ファンが頻繁に墓参に来ています。板谷波山夫妻も当墓域に眠っています。豊島八十八ヶ所霊場21番札所です。
古河庭園
 旧古河庭園
  旧古河庭園は幕末期、長崎奉行や勘定奉行を務めるかたわら能書家としても知られた戸川播磨守安清の下屋敷があった所です。この屋敷は明治に入り、外務大臣陸奥宗光の邸宅になった。ここが古河家に所有が移ったのは、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったためです。その後、大正 6年(1917)に古河財閥 3代目当主の古河虎之助 (市兵衛の実子)によって西洋館と庭園が造られ現在の形となりました。この洋館と洋風庭園の設計は、明治期多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルが行い、日本庭園は近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛(植治)により作庭されました。大正15年(1926)に虎之助夫妻が牛込市谷船河原町に転居した後は、古河家の迎賓館として使用されました。終戦後は連合軍に接収され、イギリス大使館付駐日武官の宿舎などに利用されました。財産税の物納で国有財産になった後は東京都に無償で貸し出され、昭和31年(1956)4月30日に都立公園として一般に公開されました。
城官寺
城官寺
  真言宗豊山派寺院の平塚山城官寺は、江戸時代には平塚神社の別当寺でした。三代将軍徳川家光が鷹狩りに来た折に、神社内に普請が立派な寺があるのを見て、「誰がこれを建てたのか?」問うたところ、名主が「山川城官貞久と言う者が、家光公が病にあったとき、病気平癒を祈念して社殿を造り直したのです」と答えた。これを聞いた家光は、これを喜び、城官に知行地200石与えて、寺号を平塚山城官寺安楽院と称するよう命じました。信頼を得た山川城官貞久はこの寺に入り、平塚神社ともども再興したと伝えられています。徳川家の侍医・多紀桂山(たきけいざん)一族の墓があり、東京都指定史跡となっています。また、当山の山門に書かれた「平塚山」の扁額書は田中角栄筆によるものです。
 
一里塚
 旧渋沢邸跡  飛鳥山公園
 青淵文庫 (せいえんぶんこ)と晩香櫨(ばんこうろ)
  渋沢栄一の邸宅があったこの地は、面積が約3万坪あったが、現在はその3分の1になっている。記念館は実業家 渋沢栄一の思想や業績が展示してあり、その足跡を辿れば日本の近代経済史がよく理解できます。庭園内には鉄筋洋館の青淵文庫と洋風茶屋の晩香櫨があります。青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建ての書庫で、「青淵」の名は栄一の実家の渕上小屋に因んでおり、栄一は自らの号にしている。外壁は石貼り、テラスに面した窓の上部はステンドガラスで飾られています。晩香廬は栄一の喜寿を記念して清水組から贈られた木造の洋風茶室です。様々な建築様式を取り混ぜ趣向を凝らした小建築で、賓客の接待に用いられました。名の由来には諸説あり、栄一自作の漢詩から取ったものとか、栄一が好きな菊の花が晩節に香りを放つことから、その想いを込めて名付けられたともいわれています。
 渋沢栄一は天保11年(1840)に埼玉県深谷・血洗島に生まれ、家業の畑作、藍玉の製造・販売を手伝う一方、幼い頃から父に学問を学び、縁あって、一橋家に仕えることになった。27歳の時、一橋家当主、德川慶喜が15代将軍となり、慶喜の実弟・後の御三卿清水家当主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞して、株式会社組織を学んできました。維新後、明治政府に招かれ大蔵省に入り、新しい国づくりに深く関わるが自らの才能と知識を実業界で役立てることを決意し、1873年、大蔵省を辞した後、民間経済人として活動し、富岡製糸工場や王子製紙の設立に貢献しました。そして第一国立銀行の頭取となって、日本資本主義草創期の造船、紡績、セメント、海運、鉄道、ホテル、ビール、保険レンガ製造など、約500の会社の成立、育成に関わり、近代産業発展に大きな役割を果たしました。現役、引退後は、社会福祉(養育員)と教育事業に尽力し、多くの人々に惜しまれながら、昭和6(1931)年、91歳の生涯を閉じました。
  飛鳥山公園
  桜の名所、飛鳥山は、享保8年(1723)第8代将軍徳川吉宗が、大量の桜を植えさせ、江戸庶民の憩いの場としたのが、始まりで、明治6年(1873)の太政官布達によって、浅草寺、増上寺、寛永寺、富岡八幡宮とともに東京市の公園に定められました。公園内の飛鳥山之碑は、将軍吉宗自らが花見をしたのを記念して、幕臣の儒者成島道筑が撰文したもので、文章が難解なことから、当時の川柳に“この花を折る名なだろうと石碑見る”と謳われています。幕末期、幕府の外国奉行、会計副総裁など歴任し、明治に入ってからも朝野新聞社を起こして文論活動をした成島柳北は、道筑の玄孫(孫の孫)である。また、桜賦の碑は、佐久間象山の勤王の精神を桜に託して詠んだ詩を明治に入ってから、弟子たちが碑にしたものである。
王子(権現)神社 ・ 王子稲荷神社
王子(権現)神社
 王子(権現)神社は、南北朝時代の後醍醐天皇統治期、当地を治めていた豊島氏が紀州熊野権現の若一王子宮を勧請したことに始まりました。徳川時代に入ると家康は天正19年(1591)朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。とくに紀州出身の第八代将軍徳川吉宗は、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る「花の飛鳥山」の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。また、境内には、全国でも珍しい「髪の祖神」が祀られており、床山業界の方々に篤く信仰されています。御祭神は百人一首で有名な蝉丸公で、姉「逆髪姫」のために鬘を作ったと言い伝えられています。
王子稲荷神社
 王子稲荷神社
  王子稲荷神社は関八州稲荷神社の総元締社で、農業神だが、商売繁盛にも願い事が叶うとして、近在から多くの参詣者を集めている。狐にまつわる言い伝えが多くあり、落語「王子の狐」の舞台としても知られ、狐の石像が多数あります。毎年2月初午の日には火難除けの凧市が立ち、境内に凧屋が店を出し、神社から授与される「火防けの凧守」を求める人々で賑わいます。大晦日には関八州から装束を改めた狐の行列があるという伝説に因んで、装束稲荷神社より、狐のお面や装束を身につけた人々が行列して王子稲荷神社へ正月の参拝をする狐の行列が行われ、江戸時代から現代まで多くの参拝者で賑わっています。
中央工学校
 本日は、偶然にも、元総理大臣・田中角栄が揮毫した
城官寺の扁額、中央工学校の校名板を拝見できてラッキーでした。
そして、本日はよく歩きました。 歩数は22,078歩でした。