甲斐 善光寺
金堂
甲斐善光寺
 甲斐善光寺は、武田信玄が川中島の合戦の際、信濃善光寺の焼失を恐れ長野から御本尊の阿弥陀如来などを移したことに始まります。正式名称は「定額山浄智院善光寺」といいます。山々を背に建ち壮大さを感じさせる巨大な山門や金堂は国の重要文化財にも指定されています。武田信玄が建立した伽藍は、江戸時代の宝暦4年(1754)門前の農家からの失火が原因で類焼しています。現在のこの山門と本堂にあたる金堂は、江戸時代の寛政8年(1796)に30年以上の歳月を費やして再建されたものです。江戸時代の甲斐善光寺は、浄土宗甲州触頭(ふれがしら)を勤め、徳川家位牌所にもなっていました。
触頭は寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達したり、寺院からの願書を上申したりする機関のことです。山門五間三戸(ごけんさんこ)の楼門で、入母屋造の構造です。五間三戸は正面の柱間が5つあり、うち中央3間が通路になっている造りのことで、門の1階部分の両脇には、仁王像が安置されています。金堂は総高27m、総奥行49mという壮観な撞木造(しゅもくづくり)と呼ばれる形の建造物で山門・三重塔・鐘楼など、本坊三院十五庵等大伽藍の中心を成しています。扁額の下に武田氏の家紋・武田菱、その右側には徳川の三つ葉葵の紋があります。
 信濃善光寺からやって来た御本尊は、武田氏滅亡の後、織田氏・徳川氏・豊臣氏の間を転々としていますが、慶長3年(1598)には、ようやく元の信濃善光寺に帰座することができました。こちら甲斐善光寺では、新たに前立仏を御本尊と定め現在に至っています。鐘楼堂の「銅鐘」は、御本尊とともに武田信玄により信濃から引きずって運ばれたもので、「引き摺りの鐘」と呼ばれ、現在もこの地で時を告げています。
地蔵堂 大仏 
芭蕉池

      


              
 * 写真は一部、web上から拝用させていただいています