渋沢栄一の足跡
東京養育院
(現・東京都健康長寿医療センター)
 
常磐橋門周辺
 日本銀行のすぐ傍にある常盤橋公園は江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところです。昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、旧東京市の公園(現在は千代田区立公園)となりました。残された城門の石垣は国の史跡に指定されています。この公園の中で、ひときわ目をひくのが渋沢栄一の銅像です。日本資本主義の父にふさわしく、日本銀行を背に、大手町のビジネス街を見守るように堂々と立っています。
常磐橋常盤橋
  常磐橋は江戸城大手門外郭の正面に当たり江戸初期には浅草門又は大手口と云われ奥州街道に通じる重要な場所でしたが、その後、常磐橋御門と呼ばれるようになりました。この門は石塁で枡形を築き正面には右側の石塁に渡りやぐら大門があり、郭内に入るように造られました。江戸期の常磐橋は木造でしたが、明治10年の洋式石造アーチ橋に架け替えられました。しかし大正12年の関東大震災によって相当の被害を受け、昭和8年、渋沢榮一の思想とその行動を顕彰する財団法人澁沢青淵翁記念会の支援により、下流に新しく常盤橋が架橋され、現在は上流にある人通専用の旧橋を常磐橋、その後造られた新橋を常盤橋と称されました。常磐橋は東日本大震災で被災し、長い間通行不可になっておりましたが、令和3年(2021)5月10日、修復工事が完成し、10年ぶりに通行が可能となりました。
一石橋 
 一石橋
  江戸時代の一石橋は外堀と日本橋川の分岐点に架けられた木橋でした。一石橋に由来は橋の北側に金座御用掛の後藤庄三郎の屋敷があり、南側には、家康が岡崎城に在住していた頃からの御用呉服商 後藤縫之助の屋敷がありました。五斗(後藤)+五斗(後藤)=一石をもじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わりました。。大正11年(1922)6月に鉄筋コンクリート製、花崗岩張りのアーチ橋として改架された。橋長43m、幅員27mあり、市電を通す構造になっており、翌大正12年9月の関東大震災にも耐え抜きました。
日本銀行
旧渋沢栄一邸跡 (飛鳥山)
  北区王子にある飛鳥山公園のある一角に、渋沢栄一は明治12年(1879)、王子の飛鳥山に別荘を建てました。その後、本邸として亡くなるまで過ごしたこの家は、 曖依村荘(あいいそんそう)と名付けられ、第18代米大統領を務めたグラント将軍や蔣介石、ノーベル文学賞受賞のインドの詩人タゴールといった賓客をもてなす民間外交の場ともなりました。敷地内にある、洋風と和風の要素を取り入れた建物「晩香廬(ばんこうろ)」は大正6年(1917)に栄一の喜寿を祝い合資会社清水組(現・清水建設)から贈られたものです。また、大正14年(1925)には栄一の傘寿と子爵昇格の祝いとして「青淵文庫」が竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)から贈られました。
  青淵文庫は,渋沢栄一の傘寿と子爵位の授受を祝して贈呈された小図書館で,大正14年に竣工した。煉瓦及び鉄筋コンクリート造2階建で,1階は露台,閲覧室,記念品陳列室などで,2階は書庫になる。 旧渋沢家飛鳥山邸の晩香廬及び青淵文庫は,大正期を代表する建築家のひとりである田辺淳吉の作風がよく示された作品である。 ともにアーツ・アンド・クラフツ運動の精神が具現された数少ない大正期の建築作品として重要である。
飛鳥山公園 
櫻の賦碑
  桜の賦(ふ)は、松代藩の儒学講で、のちに西洋の学問を学び進歩的考えを唱えて、明治維新前後の日本に大きな影響を与えた佐久間象山の作である。この賦で象山は、「桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈し、その名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がない」 と語り、門弟吉田松陰が密出国の企てをしたため、象山は連座して松代に蟄居中であった。そこで、「深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえる」と結んでいる。この賦は、万延元年(1860)象山50歳の作と云われ、2年後の文久2年(1862)孝明天皇の宸賞を賜っている。象山は蟄居赦免となり、翌年京に上り皇武合体開国論を主張して止まなかったが一徹な尊皇攘夷論者によって、京都三条付近で暗殺され、元治元年(1864) 54歳の生涯を閉じた。この碑は遺墨をもとに門弟勝海舟の意で起こされ、文は同門北沢正誠(まさなり)、書は日下部鳴鶴(めいかく)によって作成された。明治14年11月15日と刻まれている。この下に挿袋(そうたい)石室が埋蔵されている 
飛鳥山碑
 飛鳥山の地は武蔵野台地の縁辺部にあたり、上野・道灌山に続く台地の北東端に位置します。享保5年(1720)、第八代将軍徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。続く、同6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の圓遊地とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴 賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。そして同年閏11月、幕府の主導により、江戸城吹上にあった紀州の巨石を使った石碑が飛鳥山に建立されました。成島道筑(なるしまどうちく)による碑文 には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味も込められていました。 飛鳥山碑
 飛鳥山の地は武蔵野台地の縁辺部にあたり、上野・道灌山に続く台地の北東端に位置します。享保5年(1720)、八代将軍徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。続く同6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の遊園とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴 賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。そして同年閏11月、幕府の主導により、江戸城吹上にあった紀州の巨石を使った石碑が飛鳥山に建立されました。成島道筑(なるしまどうちく)による碑文 には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味も込められていました。