群馬県太田市 古城・史蹟散策
新田金山城趾
   「戦国時代、関東の山城には本格的な石垣普請の城はない」といわれてきましたが、史跡環境整備事業に伴い、平成4年より群馬県太田市金山に築かれた新田金山城の発掘調査が実行された結果、石垣を多用した壮大な山城の姿が発見されました。金山は標高約236メートルの独立峰、全山アカマツに覆われ、周囲は急峻な崖で守られた天然要害の山です。上杉謙信に攻込まれたことがありましたが、鉄壁の守りで落城しなかったと言われています。関東平野を一望に収めることができる景観が望め、本丸跡とされている山の一角には新田神社があります。西方は一段低くなっていて、湧水から出来た「日ノ池」「月ノ池」があります。長期の籠城にも耐えていたことが伺えます。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられています。クルマで山頂付近まで登坂できるし、無料駐車場も装備されている恰好の家族レクレーションスポットでした。
日の池では、戦勝祈願や雨乞いの儀式が行われていました
金龍寺
  金龍寺 (きんりゅうじ)
 大田山金龍寺は曹洞宗の寺で、寺伝によると、寺名は新田義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」に因んだものです。創建は応永24年(1417)に横瀬貞氏がその祖とした新田義貞を追善供養するため開基したとされています。金山城の重臣であった横瀬氏が文明年間(1469~1486)に創建したとする説が有力です。 その後、金龍寺は下剋上により新田(岩松)氏を退け金山城の実質的な城主となった横瀬氏一族(のちに由良氏)の菩提寺として興隆しました。しかし、天正18年(1590)、金山城の廃城に伴ない、由良氏は常陸牛久に移封され、金龍寺も寺僧とともに同地へ移りました。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615)に、この地を領した館林城主榊原氏により再興されたものです。本堂裏に、新田義貞の供養塔があり、そのまえに建ち並ぶ五輪塔は、横瀬一族のものです。
大光院新田寺
義重山大光院新田寺 (通称・呑龍寺
 大光院は、慶長18年(1613)春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖・新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍(どんりゅう)上人が迎えられました。上人は、弘治2年(1556)4月、武蔵国埼玉郡一の割村(春日部市)に生まれ、元和9年(1623)8月、大光院で入寂した名僧です。大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で人々の生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております。また、寺の山門に当たる吉祥門は家康が大阪夏の陣で大阪を落城させた日に落成したことから吉祥門を命名されました。太田市の重要文化財です。境内裏には、新田義重や呑龍上人の墓があります。
新田荘歴史資料館
   新田荘歴史資料館には、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示しています。
世良田東照宮
  世良田東照宮 (せらだとうしょうぐう)
「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。元和3年(1617)に久能山東照宮)より日光東照宮へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、寛永21年(1644)に上野国世良田へ移築し創建されました。この世良田の地が、久能山東照宮→ 富士山→ 日光東照宮を結ぶ直線上にあることと、德川氏発祥の地であることに起因していると言われています。斯様なことから創建時の社殿は日光東照宮の古社殿を移築し、一間社流造の本殿、入母屋造の拝殿、唐門も同様の形式で建立されました。いずれも国の重要文化財に指定されています。他に、元和4年作の大鉄燈籠等が重要文化財の附(つけたり)指定となっています。これらは太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されています。
長楽寺
 長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて開基した東国における禅文化発祥の寺です。栄朝は名僧の誉れ高く、得を慕って集まった全国の僧侶の中からは多くの高僧名僧が輩出しました。かれらは各地に寺院を開いて禅を広め、世良田は全国の僧侶のあこがれの地となりました。境内には広大な塔頭寺院が軒を並べ、常時500人もの学僧が研学修行につとめるなど、関東の優良な寺院として栄えました。江戸時代、徳川家康が関東に入ると、徳川家発祥の地の寺として長楽寺を重視し、天海大僧正を住職に任じました。さらに三代将軍家光の命を受けて天海は天台宗に改宗し、日光東照宮の社殿を移すなど、長楽寺は末寺700余寺を擁する大寺院として再興しました。
縁切り寺・満徳寺
 縁切寺とは、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいいます。縁切寺は寺院のもつアジール性の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったと思われます。 しかし、江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州の満徳寺と相州鎌倉の東慶寺の二つだけでした。 そのことは宝暦8年(1758)に上州勢多郡東大室村(前橋市)彦八の女房「ふみ」が満徳寺へ駆け込んできた事件が残っています。それによれば、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限ること、たとえ満徳寺の寺法を拒否しても、評定所一座(現在の最高裁判所大法廷)で、寺法通りに離婚が仰せ付けられるので、離縁状の提出を断ることはできないと寺社奉行は命じています。縁切寺は、世界的に特異な制度で、日本にしかなく、世界に二つだけのものなのです。
砂利の上に、礎石が置かれている一帯は満徳寺の堂宇が建っていたところです