森と海に包まれた自然の宝庫     真鶴半島          
  2021年8月21日(土) 江戸城やお台場を散策した折、そこには堅固な石垣がありましたが、その岩石の多くは箱根山中や真鶴半島から運ばれてきたと聞きました。振り返ってみると、わたしは箱根や熱海は何度も訪れたことがあるが真鶴にはまだ一度も行ったことがない。本日は幸いにも晴天、「今日は江戸城の石垣の産地、真鶴を見に行こう」ということになり、早朝にわが家を飛び出しクルマを駆って真鶴にやってきました。真鶴駅に着いたのは7時30分。観光案内所はまだ、開いていないが、観光パンフレットが陳列ワゴンに置かれている。右も左もわからない者には打って付けの小冊子があった。これをいただいて、散策コースを組み立て、描かれている地図に従って、散策開始となりました。最初に訪れたのが、駅前の細い路地を登っていった小高い所にある荒井城址公園。本日の散策は、ここから始まりました
真鶴駅
真鶴駅は、東海道本線小田原から3つ目、熱海からは二つ目の駅である。真鶴は石材の産地なので石材店が多い
荒井城趾公園
荒井城趾公園は 後三年の役(1083)に源義家に従って活躍した荒井実継の居城だった処と言われ、竹林に囲まれた閑静な
憩いの場になっています。春には枝垂れ桜が咲き、「枝垂れ桜の宴」が開催され、期間中はライトアップされ、幻想的な雰囲気
を楽しめます
石工先祖の碑
平安時代末期に石材業を始めた土屋格衛や江戸城を築くための採石の任に当たった黒田長政支配下の業績を称え
平安時代に建てられ、江戸末期に再建されたものです。長政はかれら石工の労苦を称賛していたと言われています
曹洞宗 瀧門寺
瀧門寺(りゅうもんじ)の山門に向かって、階段右手にある五層塔は、廃寺となった岩松山光西寺の遺物で塔身は、
江戸時代初期(1654)に石で造られ、その彫刻技術の高さを示しています。頌徳碑(しょうとくひ)は宮石工の三津木
徳兵衛を称えたもので、当時の石材業の石材加工技術の高さを示す貴重な資料です
この宝篋印塔は江戸時代 明和4年(1767) 瀧門寺第13世鳳州了悟和尚が人々の幸せを願い、多くの人々の寄付を得て建立されました
「新編相模風土記稿」によると、石橋山合戦に敗れた源頼朝は
治承4年(1180)8月28日のこの浜から数人の側近とともに
房州に船出したと伝えられています               
石橋山合戦に敗れた頼朝が、箱根山中から逃れて、
この辺で休息し家臣土肥実平が頼朝の再起を祝い、
謡い踊った処と言い伝えられています
しとどの窟
 ペリー来航があった以降、幕府は、江戸城防備ため、品川沖に台場を築き、砲台を建造しました。その時の石材は
真鶴の岩石が多く用いられました。明治に入ってから石材採掘場は多くが埋め立てられ姿を消しましたが、その時
使用された礎石が、しとど窟の前に置かれ記念碑が建てられました。真鶴はこの時も国防に貢献したのです。
貴船神社
 貴船神社は社伝では、寛平元年(889)、三ツ石(真鶴岬)の沖に現れた木像12体と書状を社家平井家の祖先
平井翁が発見し、社殿を建てて村の鎮守としたのに始まると伝わり、江戸時代まで「貴宮(きのみや)大明神」
と称するなど、キノミヤ信仰が顕著であったが、明治元年(1868)に貴船神社に改称した。
「貴船神社」という社名であるが、京都市の貴船神社からの勧請ではない。
三ツ石
故遠藤晴雄氏が収集した4500種、5万点の貝類を所蔵。海の学校も開設して、魅力的な磯の生き物、貝の世界を指導・説明をしています
中川一政美術館
片山 哲(かたやま てつ)
   明治20年(1887〉和歌山県田辺市に生まれる。東京大学を卒業後弁護士となり、その後社会民衆党の結成に参加し、神奈川2区から出馬して当選。戦後、日本社会党の書記長を歴任後、昭和22年(1947)首相指名選挙で圧勝して、第46代内閣総理大臣に就任した。クリスチャンでありながら、白居易の漢詩を著訳するなど学識の高い政治家でした。
中川 一政(なかがわ かずまさ)
 中川 一政は、東京本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。洋画、水墨画、版画、陶芸、詩作、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。全てが独学であり自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。真鶴にアトリエを持ち、居住。1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。
黒田長政供養の碑
根府川駅
  大正12年(1923)9月1日に関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、根府川駅に進入中の真鶴行き下り
列車(乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没する。列車に乗車していた約110名とホームに居た
20数名の計約130名が死亡した。
この事故で娘を亡くしたスルガ銀行創業者・岡野喜太郎によって昭和7年(1932)に真鶴駅寄りの海に面した場所に「慰霊碑
が設置され、昭和48年には、改札横に根府川駅職員一同によって「関東大震災殉難碑」が建てられました。
天正庵跡