富岡八幡宮の北側にある八幡橋を観賞して、平久川、仙台堀川に架かる鶴歩橋、亀久世橋を渡って、平野町、白河町地区に入る。
【白河町・平野町界隈】
 【間宮林蔵】
 間宮倫宋(ともむね) (通称:林蔵)
間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡の農家に生まれました。少年時代から数学の才能があり、江戸に出て、伊能忠敬の門に入り、測量を学びました。寛政12年(1800)幕府の蝦夷地御用雇いとなり、蝦夷地探検と測量に従事しました。文化5年(1808)幕命により、松田伝十郎とともに、樺太(サハリン)を探検しました。翌年7月には、単身で樺太からシベリアに渡って、沿海州に入り、黒竜江(アムール川)を遡って、デレンに到達しました。そして、約15ケ月におよぶ苦難の探検で、樺太が島であることを明らかにしました。間宮林蔵は、欧米人に魁けて海峡を発見したことで、この海峡は間宮海峡と名付けられ、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
 【浄心寺】
 江戸南町奉行 矢部駿河守貞謙
 寛政元年(1789)幕臣・矢部定令の子として誕生。天保4年(1833)大坂西町奉行となる。おりしも当時は、天保の凶作に見舞われ、矢部は飢饉対策に努めることになった。この時、元与力で学者であった大塩平八郎と対策の会合を持ち、大塩の飢饉対策は意見が異なったが矢部と大塩は深い信頼関係にあった。天保7年(1836)に勘定奉行となり、江戸に転任した。天保11年から、老中水野忠邦の主導により武蔵国川越藩、出羽国庄内藩、越後国長岡藩の三方領知替えが問題となっていた。天保12年(1841)4月、矢部は江戸南町奉行となり、この問題の検証を行った。結果として領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申した。 翌年7月に三方領知替えは12代将軍徳川家慶の裁断により中止となった。このことは、後年、定謙没後、出羽庄内藩復領の恩人として祭神に祀られている。また水野が推し進めた天保の改革に、異論を唱え、北町奉行遠山景元と協同して対抗した。当時、懸案となっていた価格騰貴問題に対しては、株仲間の廃止で価格安定を主張する水野に対し、価格騰貴は品位の劣る貨幣に改鋳したことが原因であり、株仲間を解散すると大坂に商品が入らなくなり、大坂の問屋は価格を上げるから、かえって物価高騰につながるという主張であった。商人の華美な生活態度に問題ありとする水野の主張についても、庶民のささやかな楽しみを規制するのは活力が失われて、経済が落ち込むと返した。このように、諸事に、水野忠邦の政策に対立したために、水野の息のかかった目付鳥居耀蔵の策謀により 天保12年(1841)12月、矢部は江戸南町奉行を解任された。これに異を唱えたが、無実を友人に訴えたことが問題となり、伊勢桑名藩預かりとなった。それから3ヵ月後の天保13年(1842)死去。抗議のため自ら食を絶ったといわれている。お家断絶。享年54。
  水野忠邦は「株仲間」の廃止を行った。しかし、経済界に大きな混乱をもたらし、かえって人々を苦しめることになって、定謙の見識の正しさが証明された。このため、のちに川路聖謨ら幕末期の官僚からは、その非業の死を惜しまれることになった。その後、改革の失敗と不正発覚により水野と鳥居は失脚し、定謙養子の鶴松が幕府への出仕を認められ、矢部家は江戸幕府の幕臣旗本として再興された。
【雲光院】 
 阿茶の局
  阿茶の局は、弘治元年、今川家の家臣飯田氏の子として生まれ、今川家の家臣・神尾忠重の妻となったが、忠重の死後、徳川家康の側室となりました。大阪冬の陣には、和睦の使者を務め家康の死後は、徳川秀忠の五女和子(まさこ)の入内に際し、母代として在京しました。元和九年(1623)従一位に叙せられ、秀忠の死後は尼となり、雲光院と称し、寛永14年(1637)83歳で死去しました。本塔は、総高は363cm、石質は安山岩、塔身正面には「雲光院殿従一位尼公」、左右側面と背面には、阿弥陀三尊の種子(しゅじ)が刻まれています。また、上基礎正面には「正誉周栄大姉 寛永十四年丑丁正月廿日」と刻銘されています。近世前期の宝篋印塔の様式を示し、徳川幕府の成立に深く関わった人物の墓塔として意義深く貴重な石塔です。
【深川江戸資料館】
【成等院 ・ 長専院】
【霊厳寺】
霊厳寺
 德川家康・秀忠・家光の信頼篤かった霊厳雄誉上人が、寛永元年(1624)、隅田川河口う埋め立てて霊厳島を築き、霊厳寺を建てた。明暦の大火(1657)で被災し、その後、現在地に移転した。境内入口左手には、江戸六地蔵の一つ、銅造地蔵菩薩坐像がゆったりした表情で鎮座している。その奥には、
松平定信の墓所がある。定信は、江戸三大改革の一つ、寛政の改革の推進者として知られている。第8代将軍吉宗の孫にあたり、陸奥白河藩の藩主でもあった。定信は、晩年白河楽翁と号し、文芸、学問を愛した。町名や小学校の「白河」は、これに由来する。
 銅造地蔵菩薩坐像 (江戸六地蔵)
「江戸六地蔵建立之略縁起」によると銅造地蔵菩薩坐像は、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、両親とともに病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ、無事治癒したことから、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩222222を造立したと伝わる。各像の全身および蓮台には勧進者名、造立年代などが陰刻されている。(江戸六地蔵のうち、深川永代寺の第六番地蔵は廃仏毀釈で破損、消滅)霊厳寺の地蔵は、第五番目で、享保二年(1717)に造立されました。他の地蔵に比して、手の爪が長く、宝珠を持つ左手のうち四本指が密着している。像高は273cm あり、金箔が施されていた大作でした。
【雄松院】 
 度会園女 (わたらいそのめ)
  白河にある霊厳寺の塔頭雄松院(おうしょういん)には、松尾芭蕉門下の女流俳人・度会園女(わたらいそのめ)の墓がある。園女は伊勢山田の神官の家に生まれ、眼科医の斯波一有に嫁ぎ、大坂に住み、夫妻で医業を営んでいました。大阪へ移住する以前、元禄3年(1690)より、松尾芭蕉の門人となっていた園女は、やがて本格的な活動を開始し大阪の女流俳人として名を知られていきます。元禄7年(1694)には大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招き、句会を開催しました。しかし既に病に侵されていた芭蕉は体調を崩し、そのまま大阪で客死してしまいました。園女邸で開かれた句会が、芭蕉最後の句会となりました。師を失い、さらに元禄16年(1703)には夫と死別した園女は、芭蕉の高弟であった宝井其角を頼って江戸に移住し、富岡八幡宮の前で眼科医を開業。江戸俳壇の俳人とも交流していきました。園女は富岡八幡宮に36本の桜を寄進していますが、「歌仙桜」と呼ばれる桜の名所となり、江戸の人々に親しまれていたそうです。享保3年(1718)に剃髪し、智鏡尼と号した園女は、享保11年(1727)に、63歳で死去しました。