水神大橋
水神大橋は、隅田川にかかる東京都道461号吾妻橋伊興町線支線の橋。西岸は荒川区。東岸は墨田区。橋名は東岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。創架は平成元年(19893月。橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用した。付近の汐入公園、東白鬚公園は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した平成8年(19967月より自動車道路供用が開始された。 橋の東詰で、首都高速6号向島線堤通出入口に接続する。 もともと「水神の渡し」という渡船場があった場所でもある。
木母寺 
謡曲「隅田川」で知られる梅若伝説に因んだ梅若塚で有名な寺。一般に「梅若さま」と呼ばれ寺伝に寄ると、梅若丸は吉田少将惟房鄕(これふさきょう)の子、5歳のとき父と死別し、7歳のとき比叡山で修学するが、僧たちの争いから大津に逃れた。そのときに藤太という人買いに欺かれ関東の隅田川原に連れて来られた。旅の途中で病になり、この地で貞元元年(976)3月15日に12歳で生涯を閉じたという。臨終の際に「尋ね来て問はば 応へよ都鳥 隅田川の露と消へ去ぬ」と和歌を詠んだ。このとき居合わせた僧侶の忠円阿闍梨が里人と塚を築き、柳を植えた。翌年、3月15日に里人が念仏をあげていると母親が子の消息を尋ねてきた。母親は愛児の死を知り悲嘆の涙にくれた。母親は、この地に草堂を建てて霊を弔ったと伝わる。慶長12年(1607)前中納言近衛信尹(のぶただ)が関東に下向して、参拝したとき「梅」の字に因んで、木母寺と命名したという。本堂内には、「梅若権現御縁起」「近衛信尹書の扁額」がある。境内には落語家三遊亭円生の三遊塚や明治初期、生糸で巨万の富を築いた田中平八を顕彰した「天下の糸平」と伊藤博文が揮毫した碑がある。田中平八の子孫は現在、田中貴金属を経営している。田中糸平の墓所は旧神奈川宿「良泉寺」にある。
 梅若公園榎本武揚像)
 榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六(麻布学園創立者)などの発起により、建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です。榎本武揚は幕末明治期の軍人,政治家。通称釜次郎。西ノ丸御徒目付榎本円兵衛の次男。弘化4年(1847),12歳で昌平坂学問所に入り,のち中浜万次郎塾に学ぶ。安政元年(1854) 箱館奉行堀利煕の小姓となり,樺太探検に従う。同3年,長崎海軍伝習所第2期生となり,勝海舟の指導下に軍艦操練,航海術を学び,同5年江戸築地の軍艦操練所教授方出役となる。文久2年(1862)にはオランダ留学を果たし,砲術,造船術,機関学,モールス信号、地質学そして国際法規などを習得して、慶応2年(1866),幕府が発注した開陽丸を回送して帰国する。大政奉還の前後には上方に居て,明治元年(1868)幕府海軍副総裁となる。鳥羽・伏見の戦に敗れて、徳川慶喜が江戸に下ると,榎本もまた江戸に帰り,自重を求める勝海舟に「一寸の虫にも五分の魂とやら」と書を送って官軍による軍艦接収を拒んだ。同年8月,8隻の旧幕府軍艦を率いて品川沖を脱出し,奥羽列藩同盟軍支援に北上する。その後箱館五稜郭に入り「蝦夷共和国」樹立を宣言する。新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送るが、5月14日、榎本は降伏拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた「海律全書」を、日本の将来には必要不可欠な書であり、この全書が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀・黒田清隆に贈った。黒田は榎本の人物と行動に感銘を受け、のちに、榎本の除名運動に中心的役割を果たすことになる。明治2年5月降伏した榎本は、戦後2年半の禁固を経て,敵将黒田清隆が推進している北海道開拓事業に出仕した。明治7年には海軍中将兼特命全権公使として対露交渉に当たりロシア帝国を相手にして、千島・樺太交換条約を締結する偉業を成し遂げている。榎本はモスクワからの帰路、馬車でシベリアを横断視察し,ロシアをつぶさに観察・調査して「西比利亜(シベリア)日記を記録して、のちの日露戦争の時に役立てている。その後、諸般に精通している榎本武揚は新政府内において重要な役職に付き、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使、逓信・文部・農商務・等々の各主要大臣を歴任して明治国家を支えたのである。墓所は駒込吉祥寺にある。
 隅田川神社
 源頼朝は平家打倒の兵を挙げ、下総から武蔵に入るとき、仮設の橋を掛けて渡った。その折に水神の霊を敬うべく社殿を造営した。これは浮島神社と呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきました。明治4年(1872)、地域の鎮守神であるとともに隅田川一帯の守り神でもあることから隅田川神社に改名した。現在でも、水運業者や船宿など、川で働く人たちの篤い信仰を集めているが、「水神」の名から水商売の人々にも信仰されている。かつては現在地よりも南に位置していたが、1975年に現在地に移転した。社殿前には狛犬の代わりに、珍しくも石亀が置かれている。
 岐雲園跡
  岐雲園は広さ約500坪、河水を引いた潮入り池のある別荘風の構えで岩瀬忠震(鷗所)が自分の所有する絵巻物の筆者 魯岐雲に因んで名付けた。忠震は目付・外国奉行として幕末の外交に尽くした人物で海外事情に精通して早くから開国政策を唱え、長崎伝習所の設立、蛮所調所の開設そして各国との交渉に尽力し、日米修好通商条約の締結に業績を残した。将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にしていることを理由に職を免じられた。各国との条約批准の全権国使として洋行の第一人者と思われていた矢先であり痛恨の極みであった。憂憤失意の彼は、ここ岐雲園で退隠生活を送り、再び世に出ることなく風雅な生活に興じた。忠震の号の「鷗所」は隅田川に翔ぶ都鳥に因んでつけたといい、文久元年(1861)44歳で生涯を閉じた。司馬遼太郎は「幕臣でありながら常に国家の視点で国交や通商を考えた人物」と評している。ここ岐雲園は、のちに忠震とともに幕政、外交に尽力し、外国奉行や若年寄の任に付いた永井尚志が住み、この地で没している。永井は幕府にあって開明派で、坂本龍馬とも意見を交わす間柄だったと言われている。明治中頃、幸田露伴の長兄成常も岐雲園に住み、露伴自信が居住した時期もある。
 向島百花園
 向島百花園は仙台出身で日本橋の骨董商 佐原鞠鵜が、この地に3000坪の土地を求めて別荘とし、交流のあった太田南畝(狂歌)、亀田鵬斎(書家、儒学者)、加藤千蔭(国学者・歌人)、村田春海(国学者・歌人)、大窪詩仏(漢詩人)、谷文晁(絵師)、酒井抱一(絵師、俳人)等とともに、三百余本の梅の木を植えて造園に当たった。酒井抱一が、梅が百花に先駆けて咲くことから百花園と命名したが、花屋敷、七草園とも呼ばれた。その後も文人たちが詩歌にゆかりの深い、思い思いの木を持ち込んで植樹したことから、大名屋敷や社寺の庭園には見られない野趣に富んだ江戸町人文化の庭園となった。江戸中で評判となり、文政12年には、11代将軍 家斉、弘化2年には12代家慶が訪れている。昭和13年、当時の所有者小倉家から東京都に寄贈された。東京大空襲では大きな被害を受けたが、現在は昔の面影を取り戻している。園内には山上憶良の秋の七草など、30基ほどの歌碑、句碑が建てられている。
 白鬚神社
 白鬚神社は、天暦5年(951)比叡山延暦寺の中興の祖 慈恵大師が、関東に下ったとき、近江国の朝鮮からの渡来人が祀った白鬚大明神をこの地に勧請したのが始まりと伝わる。百花園の主、佐原鞠鵜は墨堤の社寺で七福神の寿老人が欠けていた事から、この神社のご神体の白鬚大明神を寿老人に見立てて七福神を揃えた。境内には、永井荷風の祖父鷲津毅堂(童謡歌手・小鳩くるみの曽祖父)の碑、岩瀬忠震の墓碑がある。近くの白鬚橋は、橋のない渡しのときは「橋場の渡し」と呼ばれたが、大正3年、橋が出来た時、この古社に因んで命名された。
 石浜神社
 石浜神社は、聖武天皇の代、神亀元年(724)、勅願によって当地に鎮守され、源頼朝が藤原泰衡征討の折、当社に祈願して「神風や伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに宮古川かな」と詠んで、大勝祈願した。頼朝は、その祈願が成就したことで社殿を造営寄進して神恩に報いた。後に、豪族千葉氏、宇都宮氏による庇護や関八州の庶民がお伊勢参りに代えて、当社を詣でてお祓いを受ける信仰が根付いた。当地は東に隅田川、西に富士、北に筑波を遠望する清浄な神域地で、隅田川畔の名所として江戸庶民の信仰厚く、大いに隆昌した。その様子は「隅田名勝八景」「江戸名所図会」「東都歳時記」などに取り上げられている。境内には宝暦8年(1758)建立の富士遙拝所、浅草七福神のひとつ寿老神、招来(おいで)稲荷、亀田鵬斎の隅田川詩碑、「伊勢物語」の都鳥の碑などがある。
対鷗荘 
 隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘もその1つで、明治初期の公爵 三条実美の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治6年(1873)10月、太政大臣の要職にあった実美は、軋轢(あつれき)の心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、明治6年(1873)12月19日、明治天皇は病床の実美を気使い、見舞いに訪れた。その帰途、近くの宇和島藩伊達宗城の邸宅に立ち寄り、休憩の折り、隅田川の冬景色を賞せられた。「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬のさきつつ」と和歌を一首詠んでいる。
 平賀源内墓所
  江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮し、日本のダ・ビンチとも評された平賀源内は、享保13年(1782)高松藩の蔵番士の子として生まれた。12歳の時「御神酒天神」というからくりを作り、人々を驚嘆させた。知的好奇心旺盛で、向学心の強い源内は医薬に関する学問、本草学を修め長崎に遊学したのち、高松藩での家督を捨て江戸に出た。宝暦7年(1755)わが国ではじめて物産会を湯島で開催したり、石綿を発明して、それで織物を作ったり、羊を飼って毛織物を作ったり、源内焼という陶器も作っている。源内の才能は浄瑠璃、戯作、西洋画などにも及び、あらゆる方面で発揮された。医療用の摩擦起電機(エレキテル)の製作は特に有名。安永八年(1779)誤って殺傷事件を起して、投獄され小伝馬町の牢屋で病死した。墓は友人の医師 杉田玄白によって総泉寺内に建立され、築地塀は昭和に入って、旧高松藩主松平頼壽(よりひろ)よって造られた。総泉寺は板橋区小豆沢に移転したが、源内の墓は当地に残った。  * 本草学とは、中国から伝来した薬草、薬物について研究する学問。
 
杉田玄白は平賀源内の墓石を建立し追悼を書いた。
「ああ非常の人、非常のことを好み、行いもこれ非常、何ぞ非常に死なる」。天才 源内が百年後に生まれていれば、日本の科学をリードする存在になっていたと云われる。 
 おばけ地蔵
 この付近一帯は、関東大震災前までは、妙亀山総泉寺という大寺院があった。この名刹総泉寺は、芝の青松寺、高輪の泉岳寺とともに江戸府内の曹洞宗を統括した三箇寺の一つであった。関東大震災で伽藍の全てを焼失し、昭和初期に板橋区小豆沢に移転した。しかし、享保6年(1721)参道入口に建立された大地蔵は寺が移転しても、このままこの地に残された。身の丈3mにも及ぶ地蔵はめずらしく大きな笠をかぶり、その笠が向きを変えたことから、お化け地蔵とよばれるようになったと云う。
   
  お化け地蔵の散策をもって、本日のコースを終了した。このあとバス通りに出て、浅草駅行きのバスに乗り、雷門正面にある観光センターに立ち寄った。観光センターの最上階から、浅草寺、スカイツリーの景色を観覧した。つづいて、近くのファミリーレストランで、「反省・懇親会」を行って本日を振返った。本日は、まことに穏やかな晴天に恵まれ、大満足の散策であった。 (報告: 石井義文)
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