4 日目      その 2019.08.03  
長久手合戦
小牧・長久手の戦い
  1584年3月から11月にかけて、現在の尾張を中心に起きた戦いです。羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康の連合軍の間で行なわれました。信長が「本能寺の変」で倒れた後、秀吉は大坂城を築くなど天下人として振る舞っていた。それを本来主家筋にあたる立場の信長の次男信雄は快く思っていなかった。ただ単独で秀吉に対抗する力はないので、父の盟友だった家康を頼ることにしたのです。信雄からの要請を受け、家康は越中の佐々成政や紀伊の傭兵・雑賀衆や根来衆、関東の北条氏政、四国の長宗我部元親らと「秀吉包囲網」を形成していきます。斯様な中、1584年3月13日、織田家譜代の家臣だった池田恒興が秀吉側に加担し織田方の犬山城を占拠しました。この報らせを受け、家康は出陣。2日後には小牧山城を占拠した。3月27日、大坂から秀吉が大軍を引き連れて到着し、両軍睨みあいの状況になった。この時、秀吉軍は約10万、織田・徳川連合軍は1万6000~3万ほどの兵力だったといわれている。両軍はお互いに相手の出方を伺い膠着状態となった。4月4日、膠着状況を打破するべく、池田恒興が秀吉に池田、森長可、堀秀政、羽柴秀次(秀吉の甥)の4将が別動隊となり、家康の本拠地である三河の岡崎城を攻撃するという作戦を持ち掛けます。秀吉は甥である秀次に武功を立てさせたいという思いもあり、この作戦を承認します。4月6日の夜、彼らは約2万の兵を率いて、秘そかに移動を開始します。しかしこの動きは、家康方の忍びが察知して家康に報告。家康は兵を二分し、およそ9千を率いて4将を攻撃しました。まさか作戦がバレているなどと考えていなかった4将は、池田、森が討ち死にし、秀次隊が潰走するという壊滅的な打撃を受けました。これを「長久手の戦い」といいます。この後、戦況は再び膠着しますが、11月になると突然秀吉が信雄に和睦を申し入れ、信雄もこれを受諾します。家康は戦争を続ける大義名分を失い、撤退を余儀なくされました。これにておよそ8ヶ月間におよんだ戦いは終わりを迎えたのです。
8月 3日 --- 歩数 11,168歩  6.4km