美濃 大垣界隈散策
 大垣城
  大垣城は天文4年(1535)宮川吉左衛門尉安定が築城しました。天文年間においては本丸と二の丸を持つ小城でした。その後、永禄2年(1559)氏家常陸介直元が城主のとき、城の土塁を深くし、天主閣は慶長元年(1596)城主伊藤長門守によって造られた言われている。慶長18年(1613)石川主殿頭忠総のとき、城下町を包み込む総濠が完成し、近代城郭の体裁を整えていきました。寛永12年(1635)に戸田左門氏鉄が摂津尼崎から転封されると、以降11代に亘って戸田家による善政が続きました。この間、総曲輪の大手門口、南口門、清水口門など七口門を完成し、天主閣、櫓、石垣などの修築・改修を行って要害堅固な城郭を築きました。城下町は城を中心に武家屋敷が広がり、町屋は城下を通る美濃路に沿って展開し、江戸中期には大きく発展していきました。
大垣藩校敬教堂跡碑 
 大垣藩校敬教堂跡碑
  第8代藩主戸田采女正氏庸は藩士の子弟を養育するため天保11年(1840)辰の口門外に学問所・致道館を創設しました。のちの敬教堂で、第10代氏彬のとき、規模を拡大し多くの学者、文人を輩出しました。
八幡神社
八幡神社
  八幡社は、中世には大井荘と呼ばれた東大寺領でしたので、東大寺の鎮守を勧請して創建されました。寛永12年(1635)に戸田左衛門氏鉄が藩主になってから、八幡神社を再建し、整備しました。そのとき祝儀に山車が造られ、町民が喜んで曳き回したことが大垣まつりの年中行事となりユネスコの無形文化財に登録されたことで、大垣市民に愛される祭事となりました。 
円通寺
圓通寺
戸田家の菩提寺で歴代藩主が眠っております。近江膳所ケ崎で創建され、その後、尼崎を経て寛永12年(1635)、現在地に建立されました。三門は木造瓦葺き建造物で天保年間に再建されたものです。
四季の広場
全昌寺
 全昌寺
全昌寺は初代大垣藩主戸田氏鉄の奥方大誓院(德川家康の姪)が建立したものです。
幕末の藩家老小原鉄心や鉄心が師と仰ぎ、親交を重ねた住職鴻雪爪(こうせつは)の墓がある。
奥の細道結びの地
 住吉燈台と船町港跡
   俳人・松尾芭蕉は元禄2年(1689)の秋、約5ケ月の「おくの細道」の旅を終え、大垣で親しい友人との再会を果たした。その折り、名句「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下りました。
飯沼慾斎邸跡
江戸時代の蘭方医、植物学者 飯沼慾斎邸跡
 飯沼慾斎(よくさい)は、天明3年、亀山市の西村守安の次男に生まれ、大垣の医師飯沼長顕に学び、さらに京都の福井丹後守に入門、学成って大垣で開業し、長顕の嫡女・志保と結婚し、嗣子となった。文化元年本草学の大家小野蘭山に入門した。これが植物学研究の発端となった。文化三年宇田川榛斎に入門し、文化12年大垣に戻り、再び医業に当たった。また文政12年12月、弟子の浅野恒進と今村葬所で刑屍体の解剖を行っている。これが岐阜県下では最初の人体解剖である。天保3年(1832)50歳で家業を義弟に譲り、自らは大垣郊外長松に別荘「平林荘」を築いて、研究・著述に没頭した。 
美濃路大垣宿本陣跡
 大垣宿は、中山道と東海道をつなぐ美濃路の宿場町として、江戸時代を通じて、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠屋、商家などが軒を連ね、活気にあふれていました。大垣宿の本陣は、永禄年間(1558~1569)に創建されたとされています。明治11年(1878)には明治天皇が東海・北陸御巡幸の際に宿泊されており、大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡として大垣市の史跡に指定されています
大垣城大手門跡
大垣城