近江長浜城

近江長浜城

天正元年(1573)に羽柴秀吉は浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。同天正年間の4年頃に完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下からそのまま移した。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所と言われている。天正9(1581)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政(小田原攻めのとき陣内で病死)を長浜城主に任じた。天正10(1582)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉(あしめ)貞征に長浜城を占領されたが、秀吉の妻ねねら係累は近隣の寺に逃れた。天王山の一戦で三成が敗退すると長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。徳川の時代に入ると、この地は彦根藩主となった井伊家が支配したが、一国一城が敷かれたため長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。


                                                                                                                                                     つづく