今宮戎神社 

今宮戎神社本殿に天照皇大神・事代主命・素盞嗚命・月読命・稚日女命を奉斎、大国社に大国主命・五男三女八柱神を奉斎、稲荷社宇賀御魂神を奉斎し、その創建は皇紀1260年(西暦600年)推古天皇の御代に聖徳太子四天王寺を建立するに当り、同地西方の守護神として降臨し、市場鎮護の神として尊崇されたと伝えられています。
  戎さまは、左脇に鯛を右手に釣竿をもっています。その姿は、もともと漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、平安中期より献上品として宮中に鮮魚を献納していました。また海辺に近い土地では、種々の海産物と里の産物、野の産物とが物物交換される、いわゆる「市」が開かれ、当社でも平安後期には四天王寺の西門に「浜の市」が開かれるようになり、その市の守り神としても当社の戎さまが祀られるようになりました。時代が経つに従い、市場の隆盛は商業を発展させますので、いつしか福徳を授ける神商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになりました。
   室町時代以降、庶民の信仰はより厚くなり、また大阪の町も発達し、大阪町人の活躍が始まります。江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと同時期に今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の行事もこの頃から賑わいをみせ、さらに元禄期になると十日戎の祭礼を彩る宝恵籠の奉納も行われるようになり、「商売繁盛で笹持ってこい!」のかけ声も生まれ今日と同じような祭礼となりました。
現在では、1月9・10・11日の三日間の祭礼で約100万人の参詣者があり、大変な賑わいをみせています。
廣田神社
 廣田神社の創建年代は不明であるが、神功皇后が三韓征伐から戻ってくると忍熊王が反旗を翻していた。皇后は王を避けて難波に上陸しようとしたが、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこに廣田の地に天照大神の荒魂を祀るようにとの神託が降りたので、皇后は天照大神の荒魂・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を祀ると船が動き出したという。廣田神社は東方の上町台地上に建つ四天王寺の鎮守とされ、今宮村では古くから正月には御所へ新鮮な鯛を2尾貢いだという。昔は西方に紅白2種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていた。現在もその町名・萩之茶屋として残る。また、痔疾症の平癒の報賽に神使であるアカエイ
(アカエ)の絵馬を捧げている。この神使は土地を守る神で、地と痔と音が通じることから痔疾平癒を祈るものとなったという

                                                                                                                                                     つづく