石山寺
石山寺
  石山寺は天平19年(747)、聖武天皇の勅願で創建された寺院。開山は良弁
良弁とは天平勝宝4年(751)に、東大寺の初代別当となり、聖武天皇、行基、菩提僊那とともに「四聖(ししょう)」と呼ばれた僧正で、東大寺法華堂二月堂も創建したといわれています。本尊は如意輪観世音菩薩
石山寺は天平宝字5年(761)から国家的事業として伽藍の整備が行われ、東大寺から仏師が派遣されるなど東大寺との関係が深かった。そのため、当初は華厳宗に属していたが、平安時代になると醍醐寺聖宝(しょうぼう)が初代座主に就任したことにより真言密教の寺院となった。二代座主は聖宝の弟子の観賢(かんげん)、三代座主は菅原道真の孫で観賢の弟子で石山寺中興の祖といわれる淳祐(じゅんゆう)が就任している。平安時代には貴族による石山詣が盛んとなり、紫式部『源氏物語』を書き始めた寺として知られ、藤原道綱の母『蜻蛉日記』や・菅原孝標の娘の『更級日記』にも描かれている。武家との関りも深く、東大門・鐘楼・多宝塔は鎌倉幕府を開いた源頼朝の寄進と伝えられ、室町幕府を開いた足利尊氏は天下泰平を祈願して太刀を奉納したと伝えられている。織田信長と争った室町幕府最後の将軍足利義昭は石山寺を本陣としていたことがある。現在の伽藍は、豊臣秀吉の側室淀殿の大修復によって完成されたいわれています。
なお、平成27年(2015)4月文化財として日本遺産に認定されています。

石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の
天然記念物の珪灰石(けいはいせき)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている
『源氏の間』
   紫式部が籠ったと伝わる『源氏の間』は、本堂の一角に往時の佇まいを残します。 「『石山寺縁起絵巻』には、天皇や皇族、高僧など、身分の高い人々が使う部屋として描かれています。いまから千余年むかしの寛弘元年(1004) 八月十五夜、紫式部は、この部屋に参籠して、前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が、池面に映える美しい景色を眺めながら源氏物語の構想を練筆し、後世に残る大作を書き上げました。この部屋は正中年間(13241326)に成立した詞書(ことばがき)には、鎌倉時代にはすでに『源氏の間』と呼ばれていたと記されています。
多宝塔
 源頼朝
の寄進と伝わる建造物で、墨書から1194年(建久5年)の建立ということが判明している(国宝)。年代の明らかなものとしては日本最古。上層は円形で下層は方形の二重の塔で、最も優美な多宝塔として知られている。本尊は快慶作の大日如来像。 本尊を囲む四天柱には、金剛界の諸尊と五大尊が描かれている。
多宝塔が建立された背景は、平治元年(1159)に起きた平治の乱に起因する。平治の乱で、
平清盛に敗れた源義朝一行は東国を目指して都を落ちるが、三男頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次男朝長も落ち延びる途中で負傷して落命、長男義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが・・・ 
義朝が尾張国野間で暗殺されたことを知った義平は、都に戻って清盛を殺害しようとして捕らえられ、六条河原で処刑されたのだという。 『平治物語』によると・・永暦元年(1160)1月18日、清盛を討とうと三条烏丸に姿を変えて隠れていたが、平家の軍勢に押し寄せられて逃亡。石山寺のあたりに隠れるが、難波経房の家来に生け捕られて六波羅に連行されたのだという。頼朝が石山寺に寄進した
多宝塔は、義平を匿ってくれたお礼なのだと伝わります。 
右、亀谷禅尼供養塔 左、源頼朝供養塔(南北朝時代の造) 目かくし石:目隠ししてこの石を抱けば諸願成就という


       


                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています