勝林院
勝林院
長和2年(1013)大原魚山天台声明の根本道場として建立された寺院。文治2年( 1186)秋、法然上人を招いて、浄土教について論議した「大原問答」の話は有名です。本尊阿弥陀如来坐像が安置されており、塔頭宝泉院、実光院の本堂としての役割 も果たしています。

【大原問答】
  大原談義ともいう。文治2(1186)ころ、浄土宗の開祖法然源空が、のちに天台の座主となる顕真の懇請によって、京都の大原勝林院における各宗の学匠の集会で、その独自の浄土の宗義を説き、談論したことをいう。
東大寺の重源、三論宗の明遍、法相宗の貞慶(じょうけい)、天台宗の智海証真ら十数人が集まり、浄土の宗義について論じ問うた。法然が、中国の道綽(どうしゃく)、善導による浄土の一門の教えを説き、阿弥陀仏の本願念仏の実践のみが悟りに至りうることを力説すると、顕真重源はじめ聴衆一同は感銘を深くしたと伝える。そのようすは『法然上人伝記』『西方指南抄』『本朝祖師伝記絵詞』『法然上人絵伝』などにみられる。

【天台声明】
 天台宗の法要儀式に用いられる仏教声楽を「魚山声明(ぎょざんしょうみょう=天台声明)」と呼ばれます。
「声明」とは、経典や高僧が著した論釈の文言に、独特の旋律を付けて唱えることを指す言葉です。琵琶による平曲、能の謡いや長唄、あるいは浪曲や明治期の都々逸に至るまで、魚山声明にその源流を求めることができ、日本音楽の源流といわれます。かつて大原はその本場として、多くの僧侶が研鑽に努めたとされています。

 大原で伝承されてきた「魚山声明」は、平安時代に15歳で伝教大師最澄に師事した慈覚大師円仁(794~864)によって唐から伝えられました。「魚山」は、中国山東省に所在する声明の聖地の名にちなむものです。
大原には「勝林院」「来迎院」という寺院があり、開創された時代こそ異なりますが、いずれも魚山声明の道場として知られこの両院をもって「魚山大原寺」と総称されるようになり、これが大原の由来となりました。これらの門前町は現在も勝林院町、来迎院町としてその名を残します。

 勝林院の開基である寂源上人(?~1024、第三代天台座主・慈覚大師円仁より九代目の弟子)は、大原を慈覚大師が唐より伝えた法要儀式に用いる梵唄声明(仏教声楽)研鑽の地と定めました。その後、聖応大師良忍(1073~1132)によって来迎院が魚山上院に開創されました。
寂源上人が勝林院を開いて以来、大原には声明を研鑽する僧侶が集まり、その住居である僧坊が建立されました。現存するものとしては、樹齢700年とも言われる「五葉の松」で知られる宝泉院、秋から春にかけて咲き続ける「不断桜」でしられる「実光院」がこれにあたります。
 以後、魚山声明は、日本仏教の各宗派にも伝えられ、それぞれの宗派が用いる経綸に譜が付けられました。また声明の音曲は、世俗音楽へも影響を及ぼしています


       

                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています