三千院
三千院8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本に移され、たび重なる移転の後、明治4(1871)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は大原に移転して以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院「円徳院」「梶井門跡」などと呼ばれた。境内南側の庭園内にある往生極楽院内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。また、三千院の境内は、境内南を流れる呂川(りょせん)と北を流れる律川(りつせん)という2つの川に挟まれている。呂川・律川の名は声明(しょうみょう)(仏教声楽)の音律の「呂」と「律」に由来する
 御殿門(ごてんもん) 三千院の玄関口である御殿門は、高い石垣に囲まれ、門跡寺院にふさわしい風格をそなえた政所としての城廓、城門を思わせる構えとなっています。その石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れ ないといわれています。
 往生極楽院
  三千院の歴史の源とも言える簡素な御堂です。 平安時代に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられます。往生極楽院に祀られている阿弥陀三尊像はお堂に比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴です。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表しています。堂内中心に鎮座する阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちたお姿です。 なお、建物は重要文化財、阿弥陀三尊像は国宝に指定されています。
聚碧園(しゅうへきえん)客殿の庭園、聚碧園は池泉観賞式庭園で、東部は山畔を利用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成しています。江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ)による修築と伝えられています。聚碧園の隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来し、その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝えられています。

          見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙の種を植えや置きけん   (頓阿上人)

 阿弥陀三尊像  (往生極楽院内
阿弥陀三尊像はお堂に比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴です。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表しています。堂内中心に鎮座する阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちたお姿です。 なお、建物は重要文化財、阿弥陀三尊像は国宝に指定されています。

わらべ地蔵
往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さなお地蔵さまたち。 有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでくださっているようです。わらべ地蔵と名づけられたこのお地蔵さまたちは、石彫刻家の杉村孝氏の手によるものです。
 

       



                                                                                                                                                      * 写真は一部、web上から拝用させていただいています