唐招提寺は、来日した鑑真のために与えられた土地に建立された寺であります。
 この時代の大寺院は、“七堂伽藍(金堂・講堂・食堂・経蔵・鐘楼・僧坊ほか)”と呼ばれる建物から成り立ちます。しかし、唐招提寺の場合は、一度に完成していません。
759年に来日した鑑真は、東大寺で約5年過ごします。そして天武天皇の皇子の旧宅(唐招提寺の地下に遺構がある)を与えられ、これを“唐律招提(唐の律を学ぶ寺:招提=私寺)”という名の寺として、弟子と共に住居としてその拠点としています。

唐招提寺で、最初に完成したのは、①“唐招提寺の講堂”です。これは平城京の宮殿の一部(朝集殿)を、移築・改修して立てられたものです。なぜ“講堂”が真っ先に立てられたかというと、それは鑑真来日の目的に直結するからです。
鑑真の目的は、日本へ“戒律つまり僧尼として守るルールを伝えることでした。
その戒律には、お経の違いにより、そのルールも、いくつもの違いがあるのです。そのために「戒律の解説や、その違いを講説する空間つまり“講義室(講堂)」を、鑑真は何にもまして必要だったといわれています。
寺院の建立:奈良時代、政府の援助期間 (寺封の支給が30年)から、大寺院の建立には約30年が必要だったと考えられています。建築期間が長期にわたるのは、“大木の切出しと自然乾燥”から建設がスタートするためでした。したがって、待てない鑑真は、併行した諸堂の同時着工ではなく、まず“講堂”の速急な完成を望み、“移築”を希望し、これに対して朝廷もこれに応えたのでしょう。
そのために、唐招提寺金堂の完成は遅れました。

金堂の建設:最近の大修理の過程で、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキが使用されているコトが判明していて、乾燥期間が必要ですので、金堂が完成したのは、平安最初期に入ってからだと考えられています。そのために御本尊を祀る金堂の中の仏像たちも、奈良末期から平安京遷都後に完成していると思われています。恐らくは、鑑真に付き添って来日した“思託(したく)”らが中心となって、造像に当たったと推測されています。思託とは天平勝宝5年、師の鑑真と共に来日した唐の僧で師を助け、戒律の普及につとめ、唐招提寺の建立につくして「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」や延暦僧録を表しています。
また、中国に仏教が伝わった頃、釈迦や仏は“金人”と漢訳されています。そのことから“金人を祀るお堂”というところから、“金堂”という名称が生まれたと言われていますす 
伽藍
 大きな鴟尾を載せた大屋根の下には吹き放しの8本の柱が並んでいる、いつ来てもこの円柱の形は美しい。
ギリシャの建物にあるような形なのである。軒の深い金堂の脇を歩いて裏側に回った。
この位置から見る唐招提寺の淵くらい美しいものはない。何か雅楽のリズムを聴いているような
感じであった。自分がはじめてこの唐招提寺に訪れたのは、昭和22年の春であった。薬師寺からの
道が突き当たる西門は朽ち、破れた屋根の上を桜が覆うように咲いていた。(松本清張 ”球形の荒野”より)
中央に本尊・盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置する、
その他、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する
 松本清張  


       






                                                                                                                                                       * 写真は一部、web上のものを拝用させていただいています