静岡浅間神社
  静岡市街地に接する賎機山(しずはたやま)の麓に所在する
静岡浅間神社には、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社が鎮座しています。
そして、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われております。
 
  神部神社 (かんべじんじゃ)
祭神:大己貴命 (おおなむちのみこと) - 駿河国開拓の祖神
崇神天皇の時代(約2100年前)の鎮座と伝えられます。延喜式内小社で祈年の国幣に預って
います。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされま
した。

  浅間神社 (あさまじんじゃ)
祭神:木之花咲耶姫命 (このはなのさくやひめのみこと)
全国にある浅間神社の一社。延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社
より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきました。


  大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)
祭神:大歳御祖命(おおとしみおやのみこと) - 倉稲魂神・大年神の母神で、神大市比売命
を指します。応神天皇の時代(約1700年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の
市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。延喜式内小社で祈年
の国幣に預っています。

 * 三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕して
きました。明治21年(1888)、三社別々に国幣小社に昇格しました。戦後は神社本庁の別表
神社となりました。
現在は一つの法人格となっています。社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された
壮麗なもので、
計26棟が国の重要文化財に指定されています。この社殿群は文化元年(1804)
より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので、信州諏訪の立川和四郎ほか
門弟により彫刻された花鳥霊獣類は繊細を極めています。特に、重層な大拝殿は高さ25mあり
木造神社建築としては出雲大社本殿(約24m)より高く、まさに日本一の威容を誇っています。
境内には神社宝物のほか、静岡市に関する歴史資料を保管・展示している静岡市文化財資料
館があります。
 
 
德川家康との関わり
 静岡浅間神社は当地に鎮座して以来、当社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などの事績は枚挙にいとまがありません。とくに
徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として、当社から北方約1kmにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず弘治元年(1555)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして、天正10年(1582)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓約をした上で当社の社殿を焼き払いました。そして、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造しました。さらに家康が大御所として駿府在城時の慶長12年(1607)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納しました。以来当社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下行されるようになるなど徳川将軍家から手厚く庇護されるようになりました。 例えば、江戸時代初期の駿府藩主・駿河大納言徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行い当社の神の使の猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れたことが知られている。こうした経緯から、明治初年に至るまでの社領等の総石高は2313石にも及んでいました。
  八千戈神社 (やちほこじんじゃ)
祭神:主神に八千戈命(大国主命)、相殿に明治6年(1873)以降合祭された18社13柱の神々(浅間神社末社九社・大歳社末社三社・麓山神社末社三社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されたもので、摩利支天社と称し、徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くし、社殿も造営され壮麗なものでした。明治初年の神仏分離に際して、摩利支天は葵区大岩町の今川家菩提寺の臨済寺に遷され、八千戈神社となりました。昭和5年(1930)5月29日、昭和天皇が親拝し、当社に参拝しております
 
 6 月 2日(水)  
歩数           17,749
 歩行距離     9.7 km