銀閣寺
銀閣寺
 
 正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つです。
銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
 室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。

 九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。
銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。
(金閣寺HPより)
  観音殿は八代将軍・足利義政義政が自らの宗教観を託し、一層を心空殿、二層を潮音閣と命名した室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物です。本堂前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘(ぎんしゃだん)や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待つためのものと云われています。 
 
足利義政は6代将軍・足利義教(よしのり)の五男として生まれた。室町幕府というのは、開かれた当初から脆弱な政権だったが、そうした中でも、南北朝合一をはたした3代将軍の義満や、クジ引き将軍として知られる父の義教 は、強権的な政治を行った人物であった。そして14歳で将軍に就任した足利義政も、若いころは存在感のある父祖に倣い、その職にふさわしい活躍を目指していた。

● 1400年代中頃という時代は、すでに戦国時代の前哨戦ともいうべき争乱が日本各地で勃発し始めていたのである。当時の時代の流れを俯瞰すると、当時の社会に混乱をもたらした要因として3つの事柄があげられる。

● ひとつは守護大名たちの勢力が大きくなり、彼らを十分にコントロールする力が幕府にはなかったこと。南北朝の争いをおさめるために守護の権限を強化せざるを得ず、
半済法(荘園の年貢の半分を守護が徴収できる制度)などの施策が守護を強大化させてしまったのだ。

● 二つめは産業が発展して民衆が経済力をつけ自立心がつよくなったこと。一方農村では、農民たちが個々の荘園領主や荘官などに隷属する形態をとっていたのが、このころから地域ごとにまとまった「村」を形成し、しばしば
「一揆」とよばれる政治的・軍事的集団を形成して領主や支配者層に対抗するようになっていった。

● 三つめは鎌倉時代の期間に、武士の家督の相続方法が
分割相続から単独相続へと変わっていったこと。分割相続だと代を重ねるごとに領地が細分化され、一族の弱体化につながってしまう。これを防ぐために嫡子または「一族で最もすぐれた人物」がすべての所領を相続するという単独相続が増え、その結果、各地で家督争いが激化する事態となった。義政の将軍在任中に起きた応仁の乱もこうした背景が原因となっている。

● 足利義政は政治・軍事の才がない代わりに
文化人の素質を濃くもっていた人物である。関東で反乱を起こした鎌倉公方の足利成氏 (しげうじ) を懲らしめようとしたり、有力守護大名の家督争いに介入して調停をはかったりしたが、結局どれもがうまくいかず、母および妻の実家である日野家の人々に何かと干渉されたりしているうちに、無力感に襲われたのか政治への関心をなくし、長引く戦乱をよそにもっぱら遊行や風雅の世界に浸るようになってしまった。そして応仁の乱の最中に将軍職を嫡男の義尚にゆずり、乱が終わると銀閣をふくむ東山殿の造営を始め、ますます風流を追い求めるばかりの日々へと退隠していったのだった。

● 当世一流の文化人・芸術家を集めての風流は値段も高くつく。東山殿の造営費用は段銭や夫役などの税を課すことで捻出し、民衆の反感を買うことになる。 結局
義政は「政治的にはダメ将軍だったが、『日本の心』の形成に貢献した文化人」としての評価を受けることになった。茶道、生け花、能といった現代の日本の伝統文化と呼ばれているものは多く室町時代にその源流を発している。いわゆる「わび、さび、幽玄」という日本独特の美的感覚もこの時代に醸造されたといっていい。作庭・・善阿弥、絵画・・狩野正信、土佐光信、能楽・・音阿弥)などは、義政のバックアップがあってこそその力を遺憾なく発揮できたのである。

● 現在、銀閣寺の象徴として広く知られている
観音殿は、東山文化の象徴でもある。そしてその文化の名とともに記憶された足利義政は、長享3年(1489)3月の上棟までは見届けたが、翌年1月の銀閣完成を見ることなく世を去ったのであった。  (京都観光協会)