金剛三昧院 ・ 苅萱堂
金剛三昧院 】 
  高野山金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、建暦元年(1211)、金剛三昧院は、尼将軍 北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立しました。始めは禅定院と称しており、落慶法会には、臨済宗の開祖・明庵栄西禅師を請じ入れ、開山第一世としました。承久元年(1219年)、三代将軍実朝公の逝去にともない、その遺骨を納め、禅定院を金剛三昧院と改めました。その後、重臣安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、数多くの子院を建立しました。弘安四年(1281)には、北条時宗が秋田城介安達泰盛を奉行に任じ、院内に勧学院・勧修院の二院を造営し僧侶の学道研鑽の道場としました。勧学院で執り行われた勧学会は高野山学道の中心となり、今日に至るまで連綿と伝持されています。当山は高野山の中でも、いにしえの面影を色濃く残した名刹であり、鎌倉時代の風雅が残る格別な雰囲気があります。
多宝塔とは、仏教建築の仏塔のひとつです。 一般的に裳階(もこし)と呼ばれる、本来の屋根の下に、もう一重屋根を重ねる建築様式で、二層になっているように見えます。そのため外観は二階建てに見られますが、実際は一階建てです。 高さはおよそ15メートル。屋根の一辺はおよそ9メートル。多宝塔の内部は須弥壇(しゅみだん)と言われる壇が設けられており、その前には仏師運慶作と伝えられる重要文化財に指定されている秘仏、五智如来(ごちにょらい)像が安置されています。当院の多宝塔は、北条政子が夫・源頼朝の逝去に伴い創建した禅定院の規模を拡大し、金剛三昧院と改めたときに造営することになったものです。建立は貞応2年(1223)、高野山で現在残っている、もっとも古い建立物です。
 
【 安養院 】
長州毛利家より知行50石を付与され、毛利家の信仰を篤く受けた寺院  
【 西門院 】
 高野山に数多くある宿院の一つ。街の中心にあり、客室は広い庭園に囲まれ閑静。交通各所の参詣に大変便利。
【 苅萱堂 】
 

苅萱堂(かるかやどう)~ 苅萱道心と石道丸父子の悲話 ~

 時は、平安時代の終わりごろ。筑紫国に、加藤繁氏という若い領主がいました。繁氏には、正室と側室の2人の妻がいましたが、表向きはともかく、内心ではお互いを憎しみあうこと甚だしく、ついには、正室が側室を殺す計画をたてました。暗殺計画は実行されますが、これを事前に察知した家来のおかげで、難を逃れ、側室は加藤家から出ることになりました。この事件を知った繁氏は、「嫉妬から人を殺そうとまでする」人間の恐ろしさと、世の無常にさいなまれ、妻子も家も捨てて出家します。そして、高野山へ。ここで修行を重ね、やがて「刈萱道心」と呼ばれるようになります。一方、家を出た側室は、実は、子供を妊娠していました。繁氏は、そのことは全く知らず、生まれた子供は、父の顔も知らずに成長していきます。この子供が、「石童丸」です。大きくなった「石童丸」は、風の噂に、「父が高野山にいる」と聴き、母を伴って高野山へ向かいました。ようやく高野山にたどりついたものの、そこは女人禁制の聖地。やむなく、母を麓に残して、ひとり高野山を登ります。

 * 高野山にたどり着いた石童丸は、父の居所を訪ね歩き、やがて、奥の院の御廟橋で、ひとりの僧に出会います。実は、この僧こそ、実の父親・刈萱道心でしたが、既に、この世を捨て出家をした身。自分が実の父親だとは名乗れず、「加藤繁氏なるものは、既にこの世を去った」とウソをつきます。思いがけず、父の死を知った石童丸は、悲しみに暮れながら、山を下りました。母が待つ場所に戻ってみると、何んと、母は長旅の疲れから急逝してしまいました。ついに、孤独の身の上となった石童丸は母を葬ると、再び高野山に向かいました。石童丸は父の死を伝えてくれた「刈萱道心」の元で出家し弟子となります。二人はその後、子弟として一緒に修行する身となりますが、刈萱道心は死ぬまで「実の父は 自分だ」とは伝えませんでした。父子が共に修行した場所こそが、この「苅萱堂」です。
ところが、 このお話には続きがあり、舞台は高野山から信州善光寺に移ります。
晩年、刈萱道心は高野山を離れ、信州善光寺で生涯を終えます。夢で、その死を知った石童丸も、やがて善光寺を訪れ、刈萱道心が刻んだという「地蔵菩薩」にならい、同じような地蔵菩薩を彫りました。この2体の地蔵菩薩は、「親子地蔵」と呼ばれ、今日でも信州善光寺に祀られています。