檀上伽藍

壇上伽藍(だんじょうがらん)
  お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。
お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥之院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。以後の各諸堂の案内順番は、高野山に伝わる『両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第』に則っています。

俯瞰図  
平面図  
中門  (ちゅうもん)
  金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天像・多聞天像・広目天像・増長天像の四天王が祀られています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。
金堂  (こんどう)
  高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
六角経蔵  (ろっかくきょうぞう)
 鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(19342月に再建されました。経蔵の基壇付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されています。

大塔の鐘・高野四郎  (こうやしろう)

  お大師さまが鋳造を発願され、弟子の真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。現在の銅鐘は天文16年(1547)に完成したもので、直径2.12mの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。

山王院  (さんのういん)

山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付(りょうがわめんこうはいつき)入母屋造りの建物で、桁行21m、梁間8mあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594)に再建されたものです。このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。

御社  (みやしろ) お大師さまが弘仁10年(819)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。高野山開創の伝承によると、高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わります。お大師さまは密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出され、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられています。 丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594)の再建で重要文化財に指定されています。
西塔  (さいとう)
  お大師さまの伽藍建立計画案・「御図記(ごずき)」に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。お大師さまは、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔」の建立を計画し、お大師さま入定後の仁和2年(886)に完成しました。 西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834)に再建された、擬宝珠高欄付多宝塔で、高さは27mです。 根本大塔の大師・真然大徳と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられています。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のもので、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅として構成されています。

孔雀堂  (くじゃくどう)

正治元年(1199)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就されました。その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。昭和元年(1926)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。

准胝堂(じゅんていどう)

本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられています。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられています。その後、天禄4年(973)頃になって、この堂が建立され、移動されたということです。幾度も焼失しましたが、現在の堂は明治16年(1883年)に再建されました。なお、このお堂では毎年71日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれています。

御影堂(みえどう)

  もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦321日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。

 三鈷の松  (さんこのまつ)
  金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木にこのようなエピソードがあります。弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教を広めるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教を広めるにふさわしい土地であると決心したそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」として祀られました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にしています。
根本大塔 (こんぽんだいとう)
  お大師さま真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
 
愛染堂
(あいぜんどう)

建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。


大会堂  
(だいえどう)

 鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂です

不動堂  (ふどうどう)

  建久8年(1197)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(金輪塔・きんりんとう)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠(こうしょう)がそれぞれ随意に造った云われています。当初は阿弥陀堂であったと推定されていますが、後に不動明王を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)が奉安されました。この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められています。

三昧堂(さんまいどう)

済高(さいこう)座主(870942)が延長7年(929)に建立したお堂で、もともと総持院境内にありました。済高が、このお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたことから、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816)の再建です

東塔  (とうとう)

  大治2年(1127)、白河院の御願によって醍醐三宝院・勝覚権僧正(かくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)として祀られました。天保14年(1843)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984)にようやく再建されました。

東塔前より根本大塔を望む

蛇腹道 じゃふくどう

蛇腹道の由来は、壇上伽藍を高野山の中心に据えて高野山全体の寺院の並びを俯瞰したとき、その形が蛇のように長細くなっており、ちょうどこの蛇腹道のあたりが、蛇のお腹になることから「蛇腹道」という名前を付したとのことです。 そして、蛇腹道の名前を付けた人物とは、なんと! 「弘法大師・空海」その人だと云われております。 大師は生前、高野山全体の地形を「蛇」ではなく、「龍」が伏せる姿にも例えていたと言われます。 他には、現在の宿坊「蓮花院」から壇上伽藍までの道のりが蛇に似ているとされる説もあります。 まず、蛇の「頭」が「壇上伽藍(大塔)」、「腹」がこの「蛇腹道」、そして「尻尾」の部分が現在の「高野山 宿坊・蓮花院(れんかいん)」と例えたために「蛇腹道」と呼んだそうです。

高野山大師教会  (こうやさん だいし きょうかい)

高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。大講堂は大正14年(1925)、高野山開創1100年記念として建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が奉安されています。また、大講堂の奥には授戒堂があり、菩薩十善戒(日常の生活の中で実践する仏教的規範)を阿闍梨さまよりお授けいただけます。