2020年 5月29日(水) その 6
清水寺
 清水寺
 清水寺は音羽山の中腹に位置する北法相宗の総本山で、「清水寺縁起」によると、宝亀9年(778)に僧延鎮が音羽の滝上に観音を祀ったことに始まり、延暦17年(798)には坂上田村麻呂が仏殿を建立して桓武天皇の勅願寺になったと伝える古刹です。創建後、何度も火災により焼失し、現在の建物はほとんどが17世紀前半に再建されたものです。本堂はじめ16棟の建物が重要文化財に指定され、清水寺の伽藍景観を形成しています。

仁王門
 清水寺の正門です。1467〜1477年の応仁の乱によって焼失しましたが、16世紀初めに再建され、2003年に解体修理されました。幅約10m、奥行き約5m、棟高約14m あり、再建当時の特徴を示す堂々たる楼門です。

西門
 1631年再建された楼門で、ここから見る西山の日没は素晴らしく、極楽浄土に往生する入口の門、浄土を観想する日想観(にっそうかん)の聖所と云われています。日想観とは時と場所を選ばないもっともシンプルな修行法で、西の空に沈む夕暮れの太陽を見つめ、朱く染まった空に極楽浄土を想うだけで、観音さまの教えを体感することを云います。

梵鐘
 応仁の乱によって溶解焼失した梵鐘に代わって清水寺を復興した願阿上人が大勧進活動を行い文明10年(1478)に改鋳奉納された。銘文に「天下泰平国土安穏」とある

三重塔
 高さ約31mあり、国内最大級の三重塔です。京都の街からよく望見できることから古くから清水寺のシンボル的な存在となっています。創建は、847年、現在の建物は江戸時代の1632年に再建されたものです。大日如来像を祀り、四方の壁には、真言八祖像、天井・柱などには密教仏画や飛天・龍らが極彩色で描かれています。

経堂
 寛永10年(1633)の再建で、平成12年(2000)に解体修理されました。平安時代中期には一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる講堂として栄えました。それ以降は記録から消え、現在その一切経は伝来していません。堂内には釈迦三尊像をお祀りし、鏡天井に江戸時代の絵師・岡村信基筆の墨絵の円龍が描かれています。毎年2月15日の涅槃会は、ここで開かれます。 (清水寺HPより)
 本堂
 音羽山の断崖に建つ清水寺の本堂で、1633年再建の木造建築で、通称「清水の舞台」と呼ばれています。御堂には本尊の千手観音菩薩をお祀りしています。日本古来の伝統工法による丈夫な構造で、多くの参詣者で賑わう舞台を支えています。本堂から張り出した「舞台」の高さは約13mあり、これは4階建てのビルに相当します。本堂は音羽山の急峻な崖に建築されています。これは「懸造り(かけづくり)」と呼ばれる日本古来の伝統工法で、格子状に組まれた木材同士が支え合い建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしています。舞台を支えているのは、床下に建てられた18本もの柱です。樹齢400年以上の欅を使い、大きいもので長さ約12m、周囲約2mを超える柱が整然と並んでいます。その縦横には何本もの貫が通されています。木材同士をたくみに組み合わせたこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、釘を1本も使用していません。現在の舞台は1633年に再建されたものです。この舞台は清水寺の御本尊である観音さまに芸能を奉納する場所です。古くから雅楽や能、狂言、歌舞伎など日本の伝統芸能がこの場所で演じられてきました。現在ではその眺望の美しさがよく知られていますが、本来は景色に背を向けて本堂の最も奥にある内々陣に祀られている観音さまに向き合う場所です。

阿弥陀堂
江戸時代初期の1631年の再建されました。浄土宗の開祖・法然上人が日本で最初に常行念仏道場とした場所であることから、法然上人二十五霊場第十三番札所として多くの参拝者が訪れます。本尊は阿弥陀如来像。入母屋造り、桟瓦葺の建築様式です。

奥の院
「音羽の瀧」の真上に建ち、現在の建物は、本堂と同時期の1633年に再建されました。2017年に修復が完了しました。本堂と同様の懸造りです。

音羽の瀧
清水寺の開創の起源であり、寺名の由来となった瀧です。こんこんと流れ出る清水は古来「金色水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願します。

子安塔
聖武天皇・光明皇后の祈願所と伝えられていますが詳しい創建年代は不明。現在の建物は1500年に建立されたものです。檜皮葺の三重塔の内部には、子安観音(千手観音)をお祀りし、その名の通り安産に大きな信仰を集めてきました。

田村堂
 田村堂は本堂と同時期に再建されたお堂の一つで、経堂の東に建っている。三間四方、入母屋造り、桧皮葺きで、高欄付の外縁を廻らせている。丹塗りの柱など色鮮やかなお堂で、堂内厨子に坂上田村麻呂夫妻の像が祀られている。
 全国平定を目指す朝廷は東国を支配する蝦夷に対し幾度となく軍を送ります。最初は蝦夷側が優勢でしたが、坂上田村麻呂を将軍として朝廷軍を送った時、形勢は逆転し、蝦夷の首長 阿弖流爲 母禮(アテルイ&モレ)は住民の安寧のため登降します。京都に連れて行かれたアテルイとモレは、将軍 坂上田村麻呂による助命嘆願にもかかわらず処刑されてしまいます。
地主神社
 地主神社
  地主神社は清水寺の鎮守社として創建されたと伝わる古社である。謡曲「田村」にも謡われ、さくらの名所としても知られる。近年は「縁結び」の神社として人気があり、多くの若者たちが訪れてくる。本殿、拝殿、総門は1633年に建立した国重文に指定されている。拝殿天井の龍は狩野派が描いた作と云われている。
   
 清水寺は、過去幾度か訪れた寺ですが、今回は信じがたいほど、観光客が少なく、
見どころをゆっくり散策させていただきました。ラッキー!!
 5月29日の歩数   33,318     18.1km