真田丸跡
慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から牢人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は慶長5年(1600)に第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。冬の陣の終了後、和議の条件により真田幸村が渾身の戦略を練って造られた真田丸は破壊された。その所在地は特定されていないが現在、明星中・高学校のある小高い丘の一帯が真田丸跡と言われている。 |
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