その5  
真田丸跡
真田丸跡
  慶長19年(1614)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から牢人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は慶長5年(1600)に第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。冬の陣の終了後、和議の条件により真田幸村が渾身の戦略を練って造られた真田丸は破壊された。その所在地は特定されていないが現在、明星中・高学校のある小高い丘の一帯が真田丸跡と言われている。
玉造稲荷神社 
森之宮神社
 本日は、早い時間から本願寺 北御堂、南御堂、そして、20代後半に働いていた職場を訪れた。会社の支店ビルは昔の姿を残していたが、販社の建物はマンションになっていた。そして、新町公園脇にあった音楽の殿堂「フェスティバルホール」は、中之島に移転し、残された建物は、リニューアルされて「オリックスホール」に変っていた。当時から、45余年、当然とは思うが、いくつかの会社は、現存在していて、その建物を見ると当時が思い出され、いろいろな事が思い浮かぶ。大阪の名所、心斎橋商店街、道頓堀界隈は、当時と変らず、朝方なので賑わいの程はわからないが、夕方以降の賑わいと活況は十分想像出来た。このあと、「住吉大社」「帝塚山」「天王寺界隈」「真田丸跡」訪れたが、これらは、近くに居ながら、大阪勤務5年間で一度も訪れたことのない所でした。大河ドラマで話題になったところを思い出しながらの散策は、旅行5日目になったが、あまり疲労を感じないで散策することが出来た。 感謝! (Gibun)