その3  
大徳寺
黄梅院
 
楼門(金毛閣) ・ 仏殿 ・ 法堂
  千利休は、当所、茶頭として織田信長に仕えて、彼の後ろ盾によって茶の湯を広めようとしていました。しかし、信長が本能寺の変で亡くなった後、利休は茶の湯を広めるための後ろ盾を失います。そこで、利休が茶の湯を広めるために秀吉に接近したのです。利休は秀吉に仕えてから政治についてもいろいろと意見を言うようになってきました。最初の頃は、秀吉も利休の言葉を尊重していましたが、秀吉は、次第に利休の言葉を疎ましく感じるようになってきました。また、利休にしても秀吉が造った金の茶室の派手さが自分の茶の湯の精神と食い違っていることに不快感を覚えてきました。このように利休と秀吉の間には、いつしか溝ができ、その溝が次第に広がって行きました。
 こんな時に事件が起こりました。
大徳寺三門(金毛閣)の上に置かれた「利休の木造事件」です。利休は、自宅近くに建つ大徳寺の三門(金毛閣)の改築のための援助をしました。寺の住職からは大いに感謝されたが、改築の内容に対して秀吉の怒りを買います。
秀吉の怒りの理由は
「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである」と言うのです。そして、天正19年2月28日に千利休は切腹させられたのです。
千利休が切腹させられた理由には、以下の説もあります。
  1.利休が力を持ってきて、秀吉の側近・石田三成との政治的立場上の確執が生じてきていた。
  2.利休が茶器の売買で暴利をむさぼっていた
  3.利休の高弟、山上宗二の赦免を願い出たが、秀吉は許さず、斬首された為、相互の信頼関係が壊れてきていた。
 4.娘を秀吉に仕えさせるのを拒否した。
真相は定かではないが、これらのことが秀吉の怒りとなって少しずつ蓄積され、ある時点でその蓄積された怒りが爆発したのではないかと言われています。
芳春院 
  芳春院は、慶長13年(1608)に玉室宗珀が開山し、加賀百万石の祖・前田利家の夫人・松子(まつ、芳春院)が開基した。法号をとって芳春院と名付け、前田家の菩提寺とした。寛政8年(1796年)の火災により創建当時の建物が焼失するが、二年後に前田家十一代の前田治脩によって再興された。明治期には廃仏毀釈の嵐の中で荒廃するが、明治8年(1875)になってようやく復興される。本堂の背後に元和3年(1617)に創建された金閣・銀閣・飛雲閣と並び京の四閣と称されている呑湖閣がある。 
真珠庵 
大仙院 
大仙院は永正6年(1509)に大徳寺住職古嶽宗亘(こがくそうこう)によって創建された。多くの大徳寺塔頭のなかで最も尊重重視される名刹である。本堂の「床の間」と「玄関」は日本最古として国宝に指定されている。一休宗純はこの寺から輩出された。
総見院
 総見院は、天正11年(1583)、豊臣秀吉が創建した織田信長の菩提寺。信長の葬儀が執り行われた地であり、境内には信長ほか一族の墓が並ぶ。本堂の織田信長坐像は「本能寺の変」に斃れた信長の一周忌法要に合わせて香木で作られたもの。運慶・湛慶の流れを汲む仏師・康清(こうせい)の作とされ、高さ約115㎝の衣冠帯刀の姿で、眼光鋭い表情の信長である。また、趣の異なる三席の茶室、加藤清正が持ち帰った朝鮮石を井筒にしたという「掘り抜き井戸」や、秀吉が千利休から譲り受けたという樹齢400年の日本最古の「胡蝶侘助椿(こちょうわびすけつばき)」などがある。
 龍翔寺
  龍翔寺が再建された場所にはかつて天瑞院がありました。天正16年(1588)豊臣秀吉が母大政所の病気平癒を祈願して大徳寺の子院・総見院近くに創建したが、明治維新後の混乱で衰退し、明治7年(1874)に廃寺になりました。大政所の病が快癒した時に秀吉が創建した寿塔覆堂は、現在、横浜三渓園に移築されています。また、院内には大政所や戦国武将・佐々成政の墓があります。