2018年10月29日(月)
 今朝8時に山陰線丹波口から嵯峨嵐山駅に向かう。車内は混んでいたが、次の二条駅では乗客が多く降りて、容易に座れて10分ほどで目的地に着いた。駅から北に向かい車が走る道を道なりに進むと大覚寺方面を示す道標があり、そちらに進むと、閑静な高級住宅に入った。真っ直ぐに伸びた道を進むと大覚寺参道の道碑が建っている。大覚寺はもう間近だ。・・・・
 この後、本日は大覚寺、天龍寺、嵐山、松尾神社、車折神社に至るコースを散策した。本日の予定散策終了後は、一旦、ホテルに戻り、夕刻、バスで四条河原町に出て数十年ぶりの新京極ブラ歩きを楽しんだ。商店街はどの店もリニューアルされて綺麗で、高級感が溢れている。周辺にある史跡を、ネオンの明かりを頼りに散策する。龍馬が暗殺された近江屋跡、新撰組が決死の捕縛事件を起こした池田屋跡、大村益次郎、佐久間象山遭難現場など夜間であるが確認でき、しばし当時の様子などを思い浮かべ、三条河原の水辺で一曲奏でて京の夜を楽しませていただいた!
大覚寺
 名古曽の滝跡
  かつて、ここに嵯峨天皇の離宮があり、滝が流れていたのです。しかし平安時代中期・藤原公任の時代にはすっかりその滝は枯れて、石組みだけが残っていた。訪れた藤原公任、ああ…滝の音は絶えて久しいが、その評判だけは今まで流れて伝わっている。
            ♪ 京都 嵐山 大覚寺 〜 耳をすませば 滝の音 ♪ 
         この場に立つと永六輔さんのように、自然と滝の音が聞こえてきます
嵯峨上皇が建立した大覚寺庭園内、大沢池は月見の名所として知られ、松尾芭蕉もここを訪れて名句を遺した
 玄関門に移動して入山・・・
  大覚寺は平安時代初期の貞観18年(876)嵯峨天皇の離宮を嵯峨天皇皇女で淳和天皇皇后・正子内親王が淳和天皇皇子・恒寂(こうじゃく)親王を開祖として寺としたことに始まります。鎌倉時代後期には後嵯峨上皇・亀山上皇・後宇多上皇がここ大覚寺で院政を行ったため嵯峨御所と呼ばれました。文永9年(1272)長年院政を行ってきた後嵯峨上皇が、兄・後深草と弟・亀山のいずれを後継者と決めずに亡くなってしまいます。このため、後深草と亀山の血統が以後延々もめます。亀山天皇の血統はここ大覚寺に御所を置いたため、「大覚寺統」。後深草上皇の血統は現在の同志社大学新町キャンパスのそば・持明院御所に御所を置いたため「持明院統」と呼ばれました。その後、鎌倉幕府の仲介により「大覚寺統」と「持明院統」は交互に天皇を出そうという取り決めになりました(文保の和談・両統迭立)。しかし、大覚寺統の後醍醐天皇が建武の親政を行ったことと、足利尊氏が持明院統の光厳上皇を立てたことにより、両者の対立は激化。1336年、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開きます。 
勅封心経堂(ちょくふうしんぎょうでん)
  弘仁9年(818)疫病がはやり、多くの人々が亡くなりました。そこで嵯峨天皇は空海に相談なさいます。どうしたらいい。でしたら般若心経を天皇自ら書写なさい。こうして嵯峨天皇みずから書写されたところ、疫病はたちまちおさまったということです。嵯峨天皇が書写された般若心経は大いなる霊験ゆえに、「勅封心経」として特別な封印がほどこされ、後光厳・後花園・後奈良、正親町、光格天皇の般若心経とともにここ勅封心経堂に安置されています。御開帳は干支が一巡する60年に一度。次回の御開帳は平成30年。御影堂から五色の布が通っており、御影堂から拝むことで、ここ勅封心経堂の般若心経と縁を結ぶという仕組みです。
正面の像は、後水尾天皇です 
 宸殿は後水尾天皇の中宮で徳川秀忠の娘・東福門院が寝殿として使っていた御殿を移築したものです。内部は牡丹の間・紅梅の間・柳松の間・鶴の間に分かれ、とりわけ牡丹の間と紅梅の襖絵は狩野山楽作と伝えられ、絢爛豪華な色彩が目を引きます
正面の庭には右近の立花・左近の梅が御所としての名残をしめし、堂と堂の間は回廊で結ばれています。回廊はごく短い距離でくの字に曲がっています。これを稲妻にみたて、立っている柱を雨に見立てる風雅な名前で「村雨の廊下」と呼ばれます。 
天龍寺
  天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242〜46)とその皇子である亀山天皇(在位1259〜74)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。亀山とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれに因んでいる。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統の離宮・亀山殿を寺に改めて建立されたのが京都五山第一位臨済宗天龍寺派霊亀山天龍寺である。尊氏は延元3年(1338)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の延元4年(1339)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、敵対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「仇」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。夢窓疎石は鎌倉瑞泉寺の枯山水の石庭を造ったことで名高いが、この天龍寺においても、前庭を勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部に導き、方丈裏庭は曹源池を中心とした池泉回遊式庭園として作庭している。名庭園である。尊氏は寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船を造って資金を調達したことは知られている。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345)に行われた。天龍寺の伽藍は創建以来、地震、火災ばかりでなく、応仁の乱、禁門の変などの動乱で、たびたび大打撃を受けている。現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
小督碑
嵐山
蒋介石の碑 夢窓国師が開山した臨済宗寺院。京都十刹の一つ。
 法輪寺
  嵐山の中腹に位置する法輪寺は 和銅6年(713)に元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したのがはじまりと云われています。 清少納言の「枕草子では、京都の代表的な寺院として描かれ、兼好法師の「徒然草」の中にも紹介されています。今昔物語の中ではご本尊の虚空蔵菩薩のご利益が描かれて、「嵯峨の虚空蔵さん」の愛称で親しまれている様子が紹介されています。境内の展望台からは嵐山をはじめ京都市内を一望できる、すばらしい景観を眺めることができます 
松尾大社
松尾大社
  松尾大社は、日吉大社の祭神、大山咋神(ぐいのかみ)と海上守護で知られる宗像大社の祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神として祀っています。また、5世紀ころ日本に渡来し、灌漑土木や養蚕、酒造などの技術を持ち込んだという秦氏の氏神としても崇敬されています。そして平安遷都後は王城警護の神、酒造の神として信仰され、毎年11月の上卯祭には醸造安全を祈願して、全国の酒造業者が参詣に訪れます。本殿は「両流れ造り」の珍しい建築で、天文11年(1542)に改築されて今日に至っています。 
 境内の「亀の井」の水を醸造の時に混ぜると酒が腐らないと言い伝えがある
月読神社
 鈴虫寺 
 華厳禅寺(鈴虫寺)には入山する前、多くの人が並んでいて、来館者の多さに驚きました。広い居間のなかには、もう沢山の人々が、すでに隙間を詰めて座っていました。御住職・桂紹寿翁は入室するやいなや短い挨拶につづき、寄席をはじめました。内容は説話ばかりでなく、時事問題や台風で被災したことなどを面白、おかしく語り、部屋の中は講座時間のあいだじゅう笑いに包まれました。この寺が、どんな所かあまり調べないで、入ったのですが、疲労を忘れさせてくれるひとときを過ごせました。あとで分かったのですが、この寺が人気あるのは8000匹飼っている鈴虫を観賞できるのも注目ですが、御住職の講話を聞くのが楽しみでやってくるのだということが分かりました。
車折神社
運転手も車掌も一人 駅の改札出たら、目の前が車折神社の北参道
歌舞伎役者、映画俳優、歌手など有名な人、未だ無名な人、実に多くの芸能関係者が寄進している 
新京極界隈
  夕刻、30年ぶりに、京都随一の繁華街・新京極に出向いて三条河原町から鴨川、高瀬川沿いの散歩道そして四条河原町方面までの散歩をしました。当時より街はモダンになり変わらぬ繁栄ぶりを感じた。歴史に語られる事件や登場する人物たちに思いを寄せながら、史跡をめぐり、ロマンあふれる夜の京の街を徘徊して、若き頃と同様高揚する気分を味わいました。
〔本日の歩数)  36,740    21.6km