此より、石垣山一夜城歴史公園に向かう
  堀秀政は、幼少のとき織田信長の小姓・側近として働き、成長してからは石山本願寺合戦、天正伊賀の乱などで、
戦功をあげ、信長が本能寺に倒れたあとは、羽柴秀吉の配下として、山崎の合戦で活躍した。その後、秀吉の家臣
となり、秀吉の戦には、常に参陣して、戦果を上げ、豊臣姓を下賜されるほど秀吉に信頼された。小田原北条攻略
にも参陣したが、陣中で病にかかり、本陣の海蔵寺で没した。享年38歳であった。
 
 秀吉は小田原を包囲しても、城内突入などの兵を損ねる攻撃作戦はしないで、ひたすら、北条方の降参を待つ方針を取った。戦場でありながらも、京から側室淀君や茶人の千利休らを呼んで、舞や茶の湯で寛ぐ日々を過ごした。この間、後陽成天皇からの慰労の勅使として、大納言や公家衆も参じてくるなどの余裕で、北条方の降参を急がずに待った。
 
 石垣山一夜城は関東で初めての石垣造りで、関西の多くの城を手がけた穴太衆によって造られた。かなり壮大なものであったが、関東大震災により、その多くは倒壊した。 しかし、一部残された石垣からも当時の偉容を忍ぶことができる。短期間で、この城を築き、アリの抜け出す隙間もないほど包囲されている現実に、秀吉の圧倒的な力を目の当たりにした小田原・北条方が戦意を失ったことは想像出来る。
     
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