第12回 鎌倉ウォーキング  史跡碑・歌碑めぐり 
 12月8日(木) 約3年ぶりの鎌倉ウォーキングを行いました。集合場所は鎌倉駅東口。全員、時間通りに集合し、早速金沢八景行きのバスに乗車。10数分で、十二所に到着。

これより、ウォーキング開始。停留所に近いところに
「大江広元邸跡」の石碑が建っている。鎌倉は石碑が多く、大正時代から戦前にかけて鎌倉同人会、鎌倉町青年団らが建立したもので80余ケ所に建っているという。大江広元は鎌倉幕府黎明期の内務官僚として活躍した人物です。のちに、墓所も見学します。つづいて「大慈寺跡」。源実朝が後鳥羽上皇への恩と父源頼朝の徳を称えるために建立された寺院で、七堂伽藍を有する壮大な寺院であったと伝わるが、周辺は宅地化が進んでおり、その景色は目を閉じて想像するしかない。この後は、しばらく、金沢街道を鎌倉駅に向って進み、「明王院」「足利公方屋敷跡」「青砥藤綱邸跡」そして「歌の橋」へと歩みました。金沢街道は、交通量が多いので、道を横断するのも注意、注意の緊張を余儀なくされたが、ここからは北側の古道に入って「永福寺跡」に進みました。昨今の、史跡地には説明板にQRコードが付いていて、簡単に想像図などを取り出すことができます。永福寺跡は堂宇の礎石や輪郭板が復元されているだけであるがイメージ写真で二階建ての御堂回廊などを想定することができました。つづいて、「鎌倉宮」の紅葉を鑑賞して宮前の“そば処”でランチタイムとしました。
 大江広元邸跡 ・大慈寺跡 ・足利公方屋敷跡 ・青砥藤綱邸跡 ・歌の橋
 01 大江広元邸跡
「吾妻鏡」によると、大江広元は、大江惟光の子で中原広季の養子となり中原姓を名乗っていたが、建保4年(1216)陸奥守となった以降に大江姓に戻した。広元と同じく公家出身の御家人中原親能は実兄なのだという。武神と呼ばれた源義家は、広元の祖父大江匡房(まさふさ)から兵法を学んだといわれている。広元は元暦元年(1184)源頼朝に招かれて鎌倉に下向し、開設された公文所(のちの政所)の別当となり、鎌倉幕府黎明期の内務官僚として組織運営に冷静沈着な対応を行い頼朝に篤く信頼された。文治元年(1185)、源頼朝による守護・地頭の設置は広元の献策によるものとされる(文治の勅許)。建久2年 (1191)中原親能とともに後白河法皇の院御所「法住寺殿」の修造の指揮をとっている。建久10年 (1199)に頼朝が亡くなった後も幕府の中で中心的な役割を担い、頼家が家督を継ぐと宿老の13人による合議制の一人となった。承久3年 (1221)に後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した承久の乱では、北条政子とともに主戦論を唱えて勝利に導くなど、鎌倉幕府の基礎を築き上げました。
嘉禄元年(1225)6月10日大江広元 死去(法名:覚阿(かくあ)・78歳)。
:前年の貞応3年(1224)6月に北条義時 死去(62歳)、嘉禄元年(1225)8月 北条政子 死去(69歳)

02 大慈寺 (だいじじ) 
 建暦2年(1212)4月18日、三代将軍源実朝が後鳥羽上皇への恩と父源頼朝の徳をたたえるために建設を開始した寺院です。勝長寿院の「大御堂」に対して大慈寺は「新御堂」とも呼ばれていました。建保2年(1214)7月27日には栄西が呼ばれ、北条政子も参列する大法要が催されました。建保4年(1216)実朝は宋の能仁寺から仏舎利(釈迦の歯)を請来(しょうらい)しました。仏舎利は、勝長寿院に安置された後、大慈寺に納められていたというが、弘安8年(1285)北条貞時によって円覚寺に移され、現在は、正続(しょうぞく)院の舎利殿に納められています。大慈寺は、七堂伽藍を有する壮大な寺院で、明王院の東側一帯が全て大慈寺の境内であったといわれています。
正嘉(しょうか)元年(1257)には、大修繕が行われ、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、三重塔、鐘楼等が修理され、そのときの供養の様子が『吾妻鏡』に記されています。丈六堂は江戸時代まで存在していたが廃絶となり、堂に安置されていた阿弥陀仏の頭が近くの光触寺に伝えられています。また、金沢街道沿いにある龍華寺(りゅうげじ)が管理する墓地墓塔群が丈六堂の跡地とも云われています
 明王院
3  明王院 (みょうおういん)

当院は正しくは「真言宗飯盛山寛喜寺(かんぎじ) 明王院五大堂」と云う。鎌倉4代将軍頼経が宇都宮辻子(ずし)幕府の鬼門除け祈願所として、この地に嘉禎(かてい)元年(1235)建立した寺院で五つの大きな御堂があり、それぞれの御堂に不動明王は祀られていたので五大堂とも呼ばれました。鎌倉時代から祈願所として重んじられ、元寇の際には、異国降伏祈祷が行われました。寛永年間(162444)の火災では4つの御堂を焼失し、一堂が焼失を免れ、不動明王が残され、現在に至っています。当院は、現在、往時の面影はないが、将軍の御願寺として鶴岡八幡宮寺永福寺(ようふくじ)(しょう)長寿院と並ぶ高い格式でした。頼経は五摂家の一つ九条家の出身で、頼朝の遠縁にあたり、わずか2歳で鎌倉に迎え入れられ尼将軍北条政子に養育されました。嘉禄元年(1225)に元服し、翌年、13歳で鎌倉幕府の4代将軍となりました。その年に2代将軍頼家の娘で15歳年上の竹御所(源よし子)を妻に迎えました。2人の間に子供ができたが、死産と云う不運で、世継ぎを得ることができず、竹御所も数年後に病で死去したため頼朝の血筋は完全に消滅しました。頼経が年齢を重ね官位を高めていくにつれ、反得宗家の北条朝(ともとき)らが接近してきて、幕府内での権力基盤を徐々に強めてくるようになると、これを警戒する4代執権北条経時は将軍退位を迫り、寛元4年(1246)、五代執権北条時頼によって鎌倉を追放されました。これを(みや)騒動と云います。


04 足利公方屋敷跡
鎌倉幕府が滅亡のとき、尊氏が朝廷側に寝返ったのを怒った北条高時は、この地にあった足利邸を焼き討ちしました。その後、建武2年 (1335足利義(よしあきら)が鎌倉公方になったとき再建されました。義詮が2代将軍になり、京都に引き上げると義詮の弟基氏鎌倉公方になり、以降氏満、満兼、持氏と代々引き継ぎここに住みました。室町時代後期には廃墟になったが土地の人々は、いつか公方様が帰ると信じ、畑にもせず、芝野にしていたといわれています。

05  青砥藤綱邸跡(あおとふじつな)
第5代執権北条時頼の治世のとき、評定(ひょうじょう)(しゅう)1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威
あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。 

 06.  歌の橋
 歌ノ橋は金沢街道の二階堂川に架かる橋で鎌倉十橋の一つです。『吾妻鏡』によれば、建暦3年(1213)2月16日、二代将軍頼家の遺児栄実を将軍に据え、北条義時を討つという信濃武将の泉親衡(ちかひら)の謀反が露見した。上野国(こうずけ)の武将渋川六郎兼守は謀反に加担したとして捕らえられ、安達景盛に預けられた。そして、2月25日には、翌朝の処刑が決まった。無実の罪を晴らすために兼守は十首の和歌を荏柄天神社に奉納した。その和歌がどのようなものであったかは伝わっていないが、前夜から荏柄天神社に警護していた家臣が奉納された和歌を将軍源実朝へ届けた。読んだ実朝はその出来ばえに感動して、兼守の罪を許したのだという。助けられた兼守は深く感謝して、その御礼として二階堂川に架けたのが「歌ノ橋」だったのだと伝えられている。泉親衡の謀反では、和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長も捕えられ、このことが5月に起こる和田合戦へと繋がっていきました。
永福寺跡
 07. 永福寺(ようふくじ)跡  
  源頼朝が、1189(文治5)年の奥州合戦で亡くなった弟の源義経や義経をかくまった奥州平泉の藤原泰衡ら数万の霊を供養するめに、建久3年(1192)に永福寺が建てられました。ここはその跡地です。永福寺は奥州藤原氏が建てた中尊寺(平泉)の屋根が二層になった二階大堂大長寿院を手本に造ったものです。永福寺も二階堂と通称され、この地区の名称となっております。池に面して建つ、非常に大きく美しい寺院で足利尊氏は、中先代(なかせんだい)北条時行を討った後、ここで武士の賞罰を行ったと伝えられています。応永12年(1450)の火事で焼失したといわれ、廃寺となりました。発掘調査により、永福寺は本堂(二階堂)の両側に阿弥陀堂、薬師堂の三堂が横に並び、その前面に広い池が作られ中の島や釣殿がある浄土式庭園を持つ壮大な寺院の遺構が確認されています。現在は、鎌倉時代を代表する遺跡として国の史跡に指定され史跡を活かした公園として復元整備が行われ当時の伽藍配置や苑池などを見ることができます。
(注) 中先代北条時行とは:鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児。先代の武家の筆頭である高時と室町幕府創始者であり武家の棟梁である足利尊氏との中間の存在として、中先代(なかせんだい)とも呼ばれる。
鎌倉宮
08 鎌倉宮
  鎌倉宮は明治2年(1869)明治天皇によって護良親王を祀るために建てられました。長い歴史において、この鎌倉宮が唯一「天皇自らが創建」した神社です。祭神の護良親王は、「建武の新政」を行なった後醍醐天皇の皇子です。親王は、楠木正成らとともに鎌倉幕府打倒を目指して戦い、幕府滅亡後には征夷大将軍に任ぜられたが、建武元年(1334)11月15日、武家政権を狙う足利尊氏と対立し、この地にあった東光寺に幽閉されてしまう。翌建武2年(1335)、十四代執権北条高時の子北条時行が反乱(中先代の乱)を起こした際、足利尊氏の弟の直義によって殺害されました。境内には、親王が幽閉されていたとされる土牢が残されています。祭神は大塔宮護良親王で親王は2度に亘って天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となり大塔宮と称されました。
 
ランチタイム
  昼食後は、鎌倉の古社荏柄天神を訪れました。樹齢900年におよぶ御神木の大銀杏、かっぱ筆塚、絵筆塚などを見学し、拝殿で道中の安全祈願を祈願しました。つづいて、近くの和風民家に行った。庭には沢山の孟宗竹が生い茂り、その門の表札には「北條」と書かれてあり、Google Mapには、「北條義時邸跡」と記載されているが、その説明板はなく、もちろん、邸内には入れない謎めいた家でした。これは後日の研究課題として、次に移りました。源頼朝の墓、北條義時法華堂跡、大江広元墓所、そして宝治合戦で滅ぼされた三浦一族が埋葬された三浦やぐら等々を訪れました。この一帯は、そして、ドラマ「鎌倉殿の13人」にゆかりのある処でもあり、かつ近年鎌倉市が整備したこともあり、訪れる人が多くいました。ここから近い、鎌倉幕府が置かれた大蔵御所跡碑の前で記念撮影をして、鶴岡八幡宮へと向いました。
荏柄天神社
09 荏柄天神社
荏柄天神社は荏柄山天満宮とも称され,京都の北野天満宮,福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神の一つに数えられる。創建は長治元年(1104)。祭神は学問の神様として知られる菅原道真と須佐男尊(すさのおのみこと)である。源頼朝は鎌倉幕府開府にあたり、鬼門の守護社として崇敬し社殿を造営している。幕府滅亡後も鎌倉公方足利家の尊崇を受け、江戸期に入っても鶴岡八幡宮とともに徳川家に庇護されてきた。本殿は鎌倉最古の神社建築(国重文)で、社宝には、憤怒の表情で「怒り天神」と呼ばれる木造天神坐像(国重文)がある。境内には推定樹齢900年の御神木の大銀杏が聳えている。荏柄天神社には付き物の梅の木も「古代青軸」や「寒紅梅」など100本以上植えられている。漫画家清水崑の「かっぱ筆塚」があり石碑の裏の文字は,作家川端康成が揮毫している。また、平成元年(1989)に完成した絵筆塚は、「フクちゃん」で知られる横山隆一を始め,漫画家154人の漫画で飾られている。
 白旗神社(法華堂)・源頼朝墓 ・北条義時の墳墓堂跡
10. 白旗神社(法華堂)と 源頼朝墓
白旗神社は頼朝を祀っている神社。明治の始め神仏分離令が発布されたとき、この地にあった法華堂が取り壊され、祭神が頼朝である白幡神社が創建されました。石段の上に頼朝の墓があります。近年の発掘調査の結果、法華堂があったのは白旗神社のある所ではなく、頼朝の墓のある位置に建立されていたといわれています。法華堂は、はじめ頼朝の持仏堂として、文治5年(1189)聖(しょう)観音を本尊として建立されました。頼朝が正治元年(1199)に相模川の橋梁の落成供養に参列した帰路に落馬して53歳の生涯を閉じるとこの持仏堂に葬られました。法華堂と呼ばれ始めたのは頼朝一周忌後のことです。 

   北条義時の墳墓堂跡
第2代執権となった北条義時は源頼朝が興した武家政権を拡大・発展させました。承久の乱を治めた2年後の元仁元年(1224)突如発病し、6月13日に死去しました。(『吾妻鏡』には、「念仏を唱えつつ順次往生をとげた」と記されているが近親者により暗殺されたとの説がある)6月18日、この地に埋葬されました。その後、墳墓堂が建てられ法華堂と呼ばれました。
三浦一族の墓 (三浦やぐら)
11  三浦やぐら
宝治元年(1247)頼朝挙兵以来、代々幕府の重臣として重用されてきた三浦氏は泰村の代に、前将軍藤原(九条)頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていたため、反逆の風説を立てられ、その挑発に乗って、北条時頼との間で宝治合戦が起こりました。敗れて追い詰められ、法華堂に立て籠もり応戦したが包囲され、泰村以下一族郎党500余名がこの法華堂で自刃して、三浦氏は滅びました。この「やくら」は三浦泰村一族を葬ったものと言われています。ここで三浦氏が滅び、それから北条家の独裁が始まったのです。
大江広元 ・毛利季光 ・島津忠久墓
12a 大江広元の墓
 大江広元(生年不明~1225年)は鎌倉幕府の政所(まんどころ)初代別当を務めた人物です。幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献しました。公家(朝廷の貴族)出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えました。広元の墓のすぐ左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕(なりひろ)が造営したものです。

12b 毛利季光の墓
 毛利季光(すえみつ)は、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。朝廷と幕府が争った承久の乱(1221年)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂(日本式の木造の霊廟)で自害したと伝わります。季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政6年(1823)に、毛利斉煕(なりひろ)により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されましたが、大正10年(1921)にこの地に移設されました。1247年没。

12c 島津忠久の墓
 島津忠久(生年不明~1227年没)は、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物です。忠久の祖母が将軍源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭(そうじとう)に任ぜられました。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)に、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営しました。江戸時代後期、安永8年(1779)に島津重豪(しげひで)により頼朝墓の整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されています。
大蔵御所跡碑
13 大蔵御所跡碑
  治承4年(1180)、鎌倉に入った源頼朝は、ここ大倉の地に居を構えました。ここを御所として敷地の中央に母屋である寝殿を建て政務を執り行いました。頼朝が右(う)近衛大将や征夷大将軍になるとこの御所は「幕府」と称された。鎌倉幕府の統治機構のひとつ政所(前身は公文所(くもんじょ))は、ここに置かれ、一般政務・財政を司っていました。頼朝がこの地を選んだのには、当時の主要な港であった六浦と鎌倉を結ぶ六浦道に沿っていたことと、陰陽道による地理的立地が四神の存在に相応しいすぐれた土地であったからと云う。大倉幕府は、たびたび火災にあったが、頼朝、頼家、実朝三代の将軍と尼将軍政子が統治した時までの45年間、嘉禄元年(1225)、宇津宮辻子幕府に移転するまで続き、武家政治の中枢機能を果たしました。現在は石碑のみしかないが、この敷地の東西南北には門が設けられていて、東御門には比企宗員(ひきむねかず) (能員(よしかず)の子)邸、西御門には三浦邸、南御門には畠山重忠等、頼朝が信頼する側近の家臣たちの邸宅が御所を囲むように建っていました。この大蔵御所は尼将軍政子が死去したあとまでの45年間、この地に置かれましたが第3代執権泰時によって宇都宮辻子へ移転されました。
畠山重忠
14 畠山重忠邸跡
  畠山重忠は鎌倉幕府の有力御家人の一人で源頼朝の挙兵に際して当初は敵対して、三浦義明を討ったりしたが、のちに臣従して源義仲追討や平家滅亡に追い込んだ治承・寿永の乱では知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として、頼朝の信頼も篤く、重要な役割を担って活躍してきた。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政が比企一族を滅ぼしたのち、時政の女婿・武蔵守平賀朝雅(ともまさ)が京都守護となると時政が武蔵の国務を掌握するようになってきた。すると武蔵国留守所惣検校職(るすどころそうけんぎょうしょく)(武蔵国武士団の統率権や租税徴収権等の任務)を任じている畠山重忠との間で対立の軋轢が生じるようになった。武蔵国を自らの領地にしたい北条時政は後妻牧の方の讒言(息子政範が畠山重保に毒を盛られたという虚言)も加えて、謀略を計り、畠山重忠に祖父への怨念を持つ三浦義村を誘い込んで、「畠山重忠が謀反を起こした」との疑いをかけて、執権として追討を宣言した。斯様なことから、存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠は元久2年(1205)6月、子重保とともに討ち滅ぼされた。畠山重忠邸址が石碑に遺されているが、その堀割の北側(現・横浜国大附属鎌倉小学校)に三浦義村邸があったと云われている。 
  鎌倉国宝館前 実朝歌碑
 
15 鎌倉国宝館前の歌碑は、関東大震災で倒壊した二ノ鳥居の石材に刻まれた源実朝の歌です。
  山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも  源実朝
  山が裂け、海が褪(あ)せ干上がってしまうような天変地異で どんな世の中になってしまったとしても
  私の忠誠心は二心なく、ただ一筋に上皇さまに捧げて、変わることはありませんの意。 (金槐和歌集)

・ 「金槐」の「金」は「鎌倉」の「鎌」の偏、「槐」は「槐門」(大臣の位)の略で、鎌倉右大臣のこと 
白旗神社
 
 16 白旗神社
  祭神は源頼朝と実朝。北条政子と頼家が造立したと伝わる。天正18年(1590)7月17日、豊臣秀吉は後北条を降伏させ、意気揚々と鎌倉入りした。白旗神社では、扉を開かせて社殿に入り込んで、頼朝の木像に語りかけ「微小な身の育ちから天下に号令するまでになったのは、御身(頼朝)とわしのみだ」「だが、御身は先祖が関東で威を張り、挙兵すれば多くの兵が従い、天下をとるのも容易であったろうが、わしは名もない卑属から天下をとったのだから、わしの方が出世頭である」と云って笑ったそうである。しかし「御身と吾は天下友達である」といって像の背中を叩いたという逸話が残されている。
 柳原神池
17  柳原神池(やなぎはらしんち)
 若宮と白旗神社の間にある池は柳原神池。かつて、この辺りは「柳原」と呼ばれ、柳の名所となっていた。
 三代執権北条泰時は下記の歌を詠んでいます。
    年経たる 鶴ヶ岡辺の柳原 青みにけりな 春のしるしに
また、柳原神池では、6月上旬に「蛍放生祭」が行われ、多数の蛍が放たれ、夜間に蛍を観賞することができます。 
端(はし)に置かれている2つの石は、水で石面を洗うと「鶴亀」の紋様が現れるといわれるめでたい石です。
現在の鶴岡八幡宮は造営する前には海辺に近い由比若宮(元八幡社)にあったが、源頼朝がこの地に移転しました。
この場所は、その由比若宮を遙拝するところです。
また、池の周りには句碑があります
     歌あはれ その人あはれ 実朝忌  菅裸馬
菅裸馬とは、本名菅礼之助といい、秋田県出身の、昭和から戦後日本の財界で活躍した実業家です。
東京電力会長、経団連評議会議長等重責を担うかたわら、俳句に精通して、俳号を裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰しています。
 鶴ケ岡八幡宮楼門と石段傍の大銀杏
今宮
19  今宮 (新宮)
     今宮は、承久3年(1221)に起きた承久の乱で配流された後鳥羽・順徳・土御門三上皇の怨霊を鎮めるために、宝治元年(1247)に創建されました。後鳥羽上皇は流された隠岐で亡くなり、順徳上皇は流された佐渡で断食をして頭に焼石を乗せて亡くなったといわれています。そして、土御門上皇は、承久の乱には反対していたことから処罰は受けなかったが、自ら申し出て土佐に流され、のちに阿波に流されて亡くなりました。伝説によると、延応元年(1239)、鎌倉の街で喧嘩や大騒動の争いごとが方々で起きました。”これは三上皇の怨霊”とのうわさが広まりました。そこで、幕府は鶴ケ岡八幡宮の鬼門、戌亥(西北)の方位に、祭神を後鳥羽・順徳・土御門の三上皇とした怨霊鎮護の社殿を創建することにしました。これが今宮です。「今宮」という名称には、新しい宮という意味があることから「新宮」とも書かれます。社殿は令和元年の台風で被害を受けたため、令和3年(2021)6月、新たな社殿が竣工しました。
鉄の井
 鎌倉十井の一つ「鉄ノ井」(くろがねのい)は、多くの観光客で賑わう小町通が金沢街道にでる角にある伝説の井戸です。井戸を彫ったときに鉄の観音像の頭が出てきたことから名づけられた。鉄観音像は、浄光明寺の前にあって廃寺となった新清水寺に安置されていたものです。出てきた頭は、江戸時代まで井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていたが、神仏分離令により観音堂が取り壊されたため、現在は東京人形町の大観音寺の本尊となっています。 
 
今回の鎌倉ウォーキングは、「鎌倉殿の13人ゆかりの史跡めぐり」に重きを置き、石碑や歌碑などに
注力したものでした。そして終いは
北條政子とその子源実朝を寿福寺に墓参して〆としました。 
 寿福寺
20   寿福寺 
   正治2年(1200)、源頼朝の妻・北条政子が頼朝の死後、頼朝の父である義朝の旧邸跡に明庵栄西を招いて創建した寺で13世紀後半になって禅宗の寺院となりました。​​鎌倉五山の第三位の格式があります。本尊は釈迦如来坐像。その脇には大きな仁王の像があります。三代将軍実朝もしばしば訪れ、最盛期には十数か所の塔頭を擁する大寺であったといいます。栄西は二度も宋に渡った比叡山の高名な僧ですが、禅密兼修の立場から中国で学んだ禅を広めようとして天台宗の比叡山延暦寺から圧力を受けていました。59歳のとき鎌倉に来た栄西を、源頼家や北条政子、その子源実朝は歓迎しました。栄西は日本に茶の文化を広めたことでも有名で、栄西が書いた『喫茶養生記』という本が寺の宝物になっています。山門前から左の小径を登ると墓地があり、明治時代の外務大臣の陸奥宗光 、俳人の高浜虚子 、作家の大佛次郎などの墓があります。墓地の山側にはやぐら(石窟)が二つ並び、一つは北条政子、一つはその子源実朝の墓だといわれています。両方とも中には供養の五輪塔があります。  (鎌倉観光ガイドより) 
その他実朝歌碑 
 実朝歌碑 2 (由比ガ浜散歩道)
      世の中は常にもがもな 渚漕ぐ
      海人の小舟の綱手かなしも

   世の中の様子はいつまでも普遍であってほしいものだ。渚に沿って漕ぐ漁師の小舟の引き綱には、舳先にくくった綱で陸から引かれている様子を見ていると切ない気持ちがこみ上げてくる (小倉百人一首の93番)
 実朝歌碑 3 (鎌倉商工会議所) 
     箱根路をわが越え来れば 伊豆の海や 
      沖の小島に波の寄る見ゆ

  この歌は、実朝作金槐集の代表的な和歌。実朝が、箱根神社から熱海伊豆山神社に向う途中、十石峠から眺めた、美しい相模の海を望んだときの感動を率直に表現した秀歌と言われています