かまくら散歩  その2 2022.02.11
 
先々週に引き続き、鎌倉を訪れました。本日は長勝寺で、恒例の水行「大国祷会成満祭 (だいこくとうえじょうまんさい)」が行われるので
数年ぶりに見学したいと思い出掛けました。 長勝寺に行く途中、鎌倉十橋に数えられている橋を渡りました。   歩数:17,200 歩
 琵琶橋
若宮大路、下馬四ツ角から海に向かっていった左側の歩道にある佐助川に架かる橋。江戸時代、若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間の道筋には弁財天を祀った祠があり、そのために道が曲がっていたため、弁財天を鶴岡八幡宮の池のそばに移し、道をまっすぐに直しました。その後、この道を弁財天が持っていた琵琶にちなんで「琵琶小路」と呼んだようで、この道に架かる橋なので、「琵琶橋」の名が付いたと考えられています。昭和30年(1955)頃までは、擬宝珠のついた朱塗りの橋でしたが、その後コンクリートの橋になり、平成4年(1992)、若宮大路の歩道拡張に伴い、かつての琵琶橋のイメージした御影石の新しい橋が再建されました。
長勝寺
 国家安泰と世界平和を祈願して、千葉県にある法華経寺の道場で百日間「かゆ」をすすり「水行」を続けてきた修行僧が、2月11日、長勝寺で最後の「水行」を行う「大国祷会成満祭」が開催されました。うちわ太鼓に導かれ水行場に入った修行僧は、裸にふんどし姿で経文を唱えながら、手桶の水を頭から浴びます。しかしながら、本日はコロナ禍の蔓延が拡がり、法華経寺の修行僧たちが下山出来なくなったとの理由で、当長勝寺の僧2名が寒風漂うなか恒例の儀式を無事果たしてくれました。
 靑砥藤綱エピソード
 評定衆 青砥藤綱のエピソード
  第5代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ、川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために 50 文を使って損をしている」 と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは永久に使われることはない。50 文で松明を買えば、それを作っている町民や商っている商家も利益を得られる」 と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」 と評されているという。 因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。
宝戒寺
 宝戒寺の一角に建つ北条一族の執権邸跡碑。
宝戒寺は北条氏の邸宅だった土地に建立された所縁の古刹です。執権となった北条義時が構えた小町邸は、義時以降は歴代の執権の屋敷とされました。北条氏滅亡後に菩提を弔うために建てられた宝戒寺は、新旧為政者の入れ替わりの象徴とも言えます。
  『吾妻鏡』によると、文治元年(1185)10月9日、頼朝は御家人を集め、京にいる義経を誅する者を募った。多くの者が辞退する中、土佐坊昌俊は、もしものときは年老いた母や幼い子供たちに情けを掛けてやって欲しい旨を頼朝に申し上げた上で、この役を引き受けた。そして、10月17日、60数騎の軍勢で義経のいる堀川の館を襲撃した。しかし、義経は、事前に襲撃を察知していたと考えられ、昌俊は捕らえられて六条河原で梟首された。この地は、土佐坊の屋敷があった処と云われています
大倉幕府跡、頼朝公墓所 および 法華堂跡
 治承4年(1180)に平氏との富士川の合戦の後、鎌倉に戻った源頼朝が、鶴岡八幡宮の東側にある大蔵郷に建てた館が、大蔵御所です。これは大庭景義が頼朝の指示で普請奉行として治承四年(1180)10月に着手して12月に12日に完成させました。頼朝が政権を得てから政治はここで行われました。それ以降、2代源頼家、3代実朝と続き、1225年源頼朝の妻で尼将軍・北条政子が亡くなって、幕府が宇都宮辻子に移るまでの46年間、この地が鎌倉幕府の中心でした。
 源頼朝の墓

 現在の頼朝の墓は薩摩藩主島津重豪により、安永8年(1779)に建てられました。
石塔は勝長寿院から移されたといわれています。
 
長州藩主の先祖墓
大江広元墓 毛利家初代当主季光墓
*  大江広元は、公文所(のちの政所)の別当として主に朝廷との交渉にあたるばかりでなく、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであった。頼朝の死後も、幕府の地固めに貢献し、承久の変や和田合戦のときも北条義時と連携して幕府の安泰に貢献した。広元の墓所の入口の石柱には長州毛利家の家紋が施されている。これは毛利家が大江氏の末裔であるとして、先祖供養のために江戸期安政5年に毛利家が大江広元の墓所を整備したことに因るものである。 
島津家初代当主 忠久墓
*  島津忠久は鎌倉の御家人で、九州豊後の地頭に任じられた。島津家では、忠久を頼朝の御落胤と称して格式を誇り、第25代島津家当主で通称・蘭癖大名と呼ばれた島津重豪(しげひで)は先祖供養と称して鎌倉に来訪し、忠久の墓所の改装を行った。
 三浦一族の墓所
  北条義時の法華堂跡の山腹にある「やぐら」は宝治元年(1247)に北条氏・安達氏と三浦氏が戦った宝治合戦によって敗れた三浦一族の墓です。三浦泰村は、将軍を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きを見せていたたま、北条時頼からは危険視されていました。斯様な折、時頼の外戚である安達景盛、義景父子らが兵を起こしたので一気に合戦となりました。大江広元の子、毛利季光は三浦方に味方したため一族は討死したが、子孫は残存してのちに毛利元就を出しています。頼朝の挙兵以来の御家人、三浦泰村以下500人が頼朝の法華堂にこもり自決した三浦一族の墓所と伝わっています。ここに相模の名族三浦氏は滅亡しました。
北条義時法華堂跡
  元仁元年(1224) 6月13日に没した義時は、『吾妻鏡』によると、「前奥州禅門(義時)を葬送す。故右大将家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす。」とあります。平成17年(2005)に行われた発掘調査により、一辺が8.4mの方三間の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記事に記載されている北条義時を供養した法華堂であることが実証されました
村田清風碑
鎌倉文華館
  平家池の畔に出来た鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムの建築は、建築家・坂倉準三の設計によって1951年に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものです。鎌倉に息づく悠久の歴史の物語を次世代に語り継ぐため、鎌倉の歴史や文化、社寺や史蹟等の情報発信の拠点として活動するところです。ザンネンながら、コロナ感染の影響のため2月末まで休館です。
鉄の井
 
   平家池畔から、多くの観光客で賑わう小町通りに入る左手に、
 鎌倉十井の一つ「鉄ノ井」(くろがねのい)があります。
 この井戸には伝説があります。井戸を彫ったときに鉄の観音像
 の頭が出てきたと云うのです。これに因んで鉄の井と名づけら
 れました。 鉄観音像は、浄光明寺の前にあったが廃寺となった
 新清水寺に 安置されていたものです。出てきた頭は、江戸時代
 まで井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていましたが、神仏
 分離令により観音堂が取り壊されたため、現在は東京人形町の
 大観音寺の本尊となっています。