かまくら散歩 2022.01.22
 
一年半振りに、鎌倉を訪れてみました。行く先は、いままでの鎌倉散策で、近くに行きながら散策出来なかった所を優先しました。
大慈寺跡碑、大江広元邸跡、江戸料理店 八百善、原節子住居、黒沢明墓所などで、今回の散歩で明らかにできました。 歩数:19,500 歩
 境内に隣接する二階建ての一軒家は原節子が住んでいた家
 
一条恵観山荘  宗偏流不審庵茶道場
大慈寺跡
夷川に架かる明石橋の北側一帯あたりは大慈寺の旧跡とされています。大慈寺は「大倉御堂」とも呼ばれ、源実朝の御願による創建です。建立の経緯は建暦2年(1212)4月18日に立柱・上棟し、7月に惣門が建立され、建保2年(1214)7月27日に栄西を導師に開堂供養が盛大に行われました。北条政子や将軍実朝は供奉人を伴ってこれに臨みました、建立以降、大慈寺は幕府、とりわけ北条氏にとっても重要な位置を占めるようになり、嘉禄2年(1226)に北条時房は政子追善のための三重塔を大慈寺内に創建、義時の三年忌には釈迦堂を同じく大慈寺内に建てています。安貞元年(1230)には北条泰時の御願で政子の三年忌の供養のため、堂の供養を評定衆などに諮り、評議を経て、4月に阿弥陀堂の供養を行いました。また寛喜2年(1230)に泰時の子、時氏が死去すると、大慈寺の傍らの墳墓堂に葬られました。以後も時氏供養や政子供養のための仏像や堂の供養が行われており、大慈寺が北条氏関係の強いことがわかります。このため正嘉元年(1257)将軍宗尊親王の時には大規模な修理が行われ、征夷大本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔・鐘楼などをことごとく修理を加え、荘厳の美は前より優れたものとなったことが『吾妻鏡』に記されています。このように鎌倉時代には幕府と北条氏により寺勢を維持してきましたが、享徳4年(1455)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった室町後期以降は不明で、いつの頃か廃絶してしまいました。
初代鎌倉公方となった足利尊氏の三男基氏の屋敷跡碑 大江の広元は頼朝のブレーンの一人で鎌倉幕府初代公文所別当
八百善
 八百善
 1570年後半、元亀・天正期より続く、栗山家は百姓でした。初代当主、栗山善四郎は育成した作物を商う八百屋をはじめ元禄期には江戸料理の八百屋善四郎から通称八百善を開業した。善四郎の名を代々引き継ぎ、四代目の文化・文政期(1820年前後)頃には、11代将軍、德川家斉も立ち寄る江戸で最も名高い料理屋となり、「江戸料理と云えば八百善」という評判が定着しました。しかし、天保の改革での営業停止命令、大正期の関東大震災そして昭和の太平洋戦争戦時下での店舗焼失などを経て、現在では料理屋の実店舗を持たない営業形態で、300年に亘る江戸料理の伝統を守り続けています。
松久寺
  松久寺は、明暦元年(1655)、心霊牛道(暉山吐光禅師)が開いた曹洞宗の寺院。山号は長盛山。 
本尊は地蔵菩薩。 東京都港区芝白金にあったが、昭和41年(1966)鎌倉に移転してきた。
釈迦堂切通
 釈迦堂切通
 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた大きな理由は、南は海に、北東西は山に囲まれ、敵の侵入を防ぎやすい地形だったからと言われています。そこで物資運搬のために山などを切り開いて造った道が「切通し」です。中でも「亀ヶ谷坂切通」「化粧坂切通」「巨福呂坂切通」「大仏切通切通」「極楽寺切通」「朝夷奈切通」「名越切通」は鎌倉七口と呼ばれ、鎌倉と外部を結ぶ特に重要な要路として存在しました。また、鎌倉七口には数えられませんが、「釈迦堂口切通し」は中世の面影を残し、訪れる価値のある切通しの一つです。釈迦堂ヶ谷には、元仁元年(1224)第三代執権北条泰時が父・義時の菩提を弔うため、この谷に釈迦堂を建てたことに由来しています。その場所は現在も特定できていないので幻の寺と言われています。ただし、釈迦堂の本尊であった清涼寺式釈迦如来立像が現在では都内目黒行人坂の大円寺にまつられています。釈迦堂切通のあたりは、北条時政の名越山荘があったところといわれています。建仁3年(1203)権力の比企能員(ひきよしかず)への集中を恐れた時政が比企能員を呼び出して謀殺したいわゆる「比企能員の変」の舞台となった山荘はことあたりだったと云われています。明治以降は車道として次々と道路拡張が行われてしまいましたが、一部の切通しは当時の古道の姿を残しており、歴史の街、鎌倉らしい景色を散策を楽しむことできます。
身近でこんなスゲー所があったんだぁ!?
釈迦堂切り通しは、現在通行できません  (写真は2011年に撮影されたものです)
安養院
黒沢明の墓は2020年に鎌倉を襲った台風で破損する被害を受けましたが、修復されたようで安堵しました
別願寺
別願寺 
  別願寺は、鎌倉公方代々の菩提寺であり、鎌倉での時宗の中心として栄えた寺。もとは真言宗の寺で能成寺といったが、弘安5年(1282)住職だった公忍が一遍に帰依し、名を覚阿と改め時宗に改宗した。同時に寺の名を別願寺とした。室町時代には足利一族が深く信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。天正19年(1591)には徳川家康からも寺領を寄進され寺勢を誇ったが、江戸時代から次第に衰微した。境内には、室町幕府に対して「永享の乱」を起こした足利持氏(四代鎌倉公方)のものとされる高さ3mの供養塔(宝塔)がある。この供養塔には持氏の怒りを鎮めるため、四方に鳥居の浮彫りが施されている。なお、大正期には作家広津和郎が下宿していました。
本覚寺
 本覚寺
本覚寺は、永享8年(1436)日蓮宗の高僧日朝が日蓮上人の遺骨を身延山から分骨してきたことから東身延とも云われている。この場所は鎌倉幕府の守護神として祀られていた夷堂のあった所で日蓮が流刑地の佐渡から戻ったとき滞在していたと云われる。本堂には南北朝期に作られた釈迦三尊像や日蓮像が安置されている。境内にある夷堂には鎌倉・江の島七福神の恵比寿さまが祀られており毎年1月に行われる「初えびす」は多くのひとで賑わう。仁王門を出た所の滑川に掛る橋は夷堂橋である。墓域には、名刀工岡崎五郎正宗の墓がある。
 
畠山重保墓
今回の散策中に知ったのであるが、畠山重忠の嫡男重保の墓が金沢白山街道沿いにあると聞き、帰路、墓参に立ち寄りました