食後の最初は、建長寺を開山した蘭渓道隆が、鎌倉で最初に入山したという常楽寺を訪れた。この寺院の山号は粟船山といい、大船の名はここから生まれたという。常楽寺本堂裏には、第3代執権北条泰時の墓がある。鎌倉時代でもっとも安定した政権を造った権力者の墓とは思えない質素なものなのには驚いた。この裏山には、頼朝の長女大姫の許婿でありながら、頼朝に殺された木曽義仲の長男義高の墓と云われる小さな祠がある。義高は12歳であったという。この一件で、大姫は心を病み、体も衰弱して若死にしたと云う。これより大船駅方面に向かう。横須賀線、東海道線の踏切を越えて、柏尾川に架かる戸部橋を渡った正面に「玉縄首塚碑」がある。玉縄城を守る北条氏と安房から攻めてきた里見氏との間に激しい戦が行われ、この戦で亡くなった北条側兵士の墓である。このとき墓前に植えられたという榎が今日大木になって聳えている。ここから10分ほど南下したところに、県立フラワーセンター大船植物園がある。晩秋とは思えないほど色彩豊かな草花が咲いていて、こころを和ませてくれた。園内には様々な花壇があり、季節の花が一年中絶えることなく咲いていた。この植物園の自慢は「しゃくやく」で、現在、200品種、2千株と全国一の規模を誇っていると云う。植物園から西に向かいトンネルを抜けると、右手に玉縄北条氏の菩提寺龍宝寺がある。寺院の背後が峻険な山に囲まれている要塞のようで、正面の山門をくぐると堅城の中に入ったような雰囲気を感じる。広い境内には、重要文化財に指定されている江戸時代中期の名主石井家の住居が移築されている。龍宝寺の南西にある小高い丘が「玉縄城」があったところで、江戸時代初期、一国一城令で廃城となったが、この地は三浦半島の付け根にあたり、地政学上の要所で、幕末期、老中松平定信は、外国に攻められたときの防衛前線基地として重要な場所と判断し、数千人を配置する城を築くことを計画されたという。現在、城址は清泉女子学園の学舎、校庭になっている。事前に、学園に許可を取って敷地内に入らせてもらい、往時の城址を見学した。中世の山城の形態が残されていて大いに勉強になった。校門の外にバス停があり、ここからバスで大船駅まで帰還することにしたが、折しも下校時に重なりバス停は女学生で溢れていた。満員バスに立ちぱなしを覚悟したが、女学生たちが、われわれを最初にバスに乗せてくれ、座らせてくれた。これまで19,000歩余り歩いて来て、疲労していたのでこの温かい心使いには感謝、感激だ。ウォーキングの最後に、大船観音寺を訪れる予定であったが、駅前から望める高さ25mの大船観音を拝観させていただき、本日はお開きとした。このあとは、のどを潤すべく大船駅東口にある居酒屋に入り、本日を振り返りました。
(石井義文) |