2022年4月5日、朝、桜咲く、好天気に恵まれ絶好の散策機会と思い、急遽、身支度をして家を飛び出し、9時半頃、小田原駅に到着。改札口前の観光案内所で地図、カタログを頂き、新幹線口に出て本日の散策を開始。駅前広場の「北条早雲公」の銅像を拝観してから、城山中学校入口の案内板が建つ脇の長い階段を登って、城山中学校へ。つづいて、再び長い階段を登って県立小田原高校に到着。随分、高台に建ち、眺望の良い学校を見て「ここの生徒は足腰強くなる」とつくづく実感しました。これからが本日の散策目的地「小田原城の総構え土塁エリア」に入りました。
北条早雲公像
早雲騎馬像は小田原攻略の際、牛角に松明を付けて敵軍に攻込む「火牛の計」を用いたと言われる様子を描いています
城山中学校

すぐれた人物をつくる校風が感じ取れます
小田原高校
神奈川県内屈指の名門・小田原高校校歌の碑に、滝廉太郎が作曲した
「花」の作詞をした国学者・武島羽衣の名に注目しました
毒榎平 (どくえのきだいら)
毒榎平は、天正18(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの戦いに備えて設けられた大外郭ができる前の
要塞で小田原城の最西端にあたる場所でした。西側には巨大な空掘と土塁が今も残っており、小田原城
にとって重要場所であったことが分かります。
写真左:雑誌「民衆」は小田原出身の詩人、福田正夫が主宰した雑誌で、小田原を郷土とする若い詩人や
  作家たちが民主主義思想の上に立って、自由平明な表現を以て民衆の生活を歌った作品で、広く共感を
  得て詩壇に新風を与えました。石碑には「民衆」という言葉が刻まれています。
写真右:明治時代の小田原出身の詩人井上康文の「梅」という一節が刻まれた石碑です。

小田原城総構土塁 (そうがまえどるい)

小田原城の総構(そうがまえ)は、小田原北条氏が豊臣秀吉との合戦に備え、天 正18年(1590)までに、
小田原城とその城下を囲って築いた総距離9Kmにも及ぶ大規模な堀と土塁による要塞の跡を言います。
豊臣軍21万、北条軍3.4万と圧倒的な不利の中を勝ち抜くための秘策が総構で、歴史と自然が融合した
壮大で「映える」歴史遺構です。 (小田原観光資料)
 小峯御鐘ノ台大堀切東堀 (こみねおかねのだいおおほりきりひがしほり)
  本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたものです。この遺構は、慰霊塔側にある東堀、現在は道路になっている中堀、西側にある西堀の三本の堀で構成されています。当時の様子が最も良く残っている東堀は幅が約20 ~ 30m、深さは土塁の頂上から約12m あり、堀の角度は50~60 度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものと言われています。
稲荷森 (いなりもり)
  総構の中でも最も良好に遺構が残っている場所のひとつです。ちょうど総構の堀が地形に沿って弧を描いている様子が確認できます。内側には、わずかに土塁の痕跡が残り、外側にも「掻き上げ土塁」と称する土塁の痕跡が確認できます。小田原側の堀の深さは約10mにもおよぶ高低差があり、城外からの侵入は難しくなっています。竹林の中の遺構で幻想的な雰囲気を醸し出しています。。