(本日のドライブコース)
東逗子駅~海宝院~延命寺~森戸神社~県立葉山公園(昼食)~浄楽寺 (前島密墓所)~衣笠城~
満昌寺~近殿神社~清雲寺~腹切り松~満願寺~福寿寺(三浦泰村墓所)~和田城跡~荒崎公園・・逗子駅
海宝院
海宝院
天正18年(1590)、徳川家康の家臣 長谷川長綱が開基しました。長綱は卓越した行政官であり、徳川氏の新領地となった三浦半島を統治するため、当地に代官として赴任しました。そして後北条氏に代わり新領主となった徳川家の威光を知らしめるべく僧之源(しげん)を招いて寺を創建しました。これが当寺の起源です。境内墓域に石原慎太郎夫妻の墓所がある。
延命寺 (逗子大師)
延命寺
  天平年間(729年 - 749年)、行基によって開山されました。行基が自ら彫った延命地蔵を安置する寺を創建したのが、当山の起源です。平安時代に弘法大師空海が当寺を訪れ、延命地蔵を収納する厨子を設けました。この厨子が「逗子」という地名の由来になったといわれています。鎌倉時代には三浦氏の祈願寺となっています。永正10年(1513)後北条氏の侵攻を受け、三浦道香主従は当寺で自害しました。道香は、三浦義同(あつ)(道寸)の弟。 
森戸神社
森戸神社
  源頼朝は以仁王(もちひとおう)の令旨(れいじ)を奉じて挙兵し、紆余曲折はあったものの鎌倉を拠点とする勢力を築いた。治承(じしょう)4年(1180)頼朝は三嶋明神(現・三嶋大社)から分霊を勧請して神社を創建しました。以降、この神社には歴代鎌倉幕府将軍が訪れる場所となりました。同神社は所領とする三浦氏の祈願所ともなっていました。隣接する海岸に石原裕次郎の碑があります。  
県立葉山公園
県立葉山公園
  相模湾に面した県立葉山公園は、葉山御用邸に隣接する松林の美しい公園です。かつては御用邸付属の馬場でしたが、戦後、県に払い下げられて公園になりました。ハマナスの花が咲くころ、目の前の大浜海岸では、マリンスポーツが盛んに行われます。秋の気配が漂いはじめるころには、いつもの静けさを取り戻しますので、潮騒を聞きながら海辺の散歩を楽しむ人が訪れます。ここは知る人ぞ知る夕陽と眺望の名所なのです。空気が澄んでいる日には、日没や海の彼方に聳える富士山を望むことができます。
浄楽寺
浄楽寺(前島密墓所)
   当山は正式には、金剛山勝長寿院(しょうちょうじゅいん)大御堂浄楽寺と言います。横須賀芦名・西海岸に800年以上の歴史を有する浄土宗寺院で和田義盛が開基し、義盛が願主として造られた運慶作の仏像5体が安置されています。(いずれも国指定重要文化財)また、晩年この寺内に住んだ近代郵政制度の創始者である前島密(ひそか)翁夫妻墓所があります。  
   これより、大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」 ゆかりの地 巡り
衣笠城趾
衣笠城趾
  山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ、東に突き出た丘陵一帯が衣笠城跡です。源頼義に従って前9年の役に出陣した村岡為通が戦功によって三浦の地を与えられ所領となった三浦の中心地です。要害堅固で両川を自然の堀として、康平年間( 1058-1064)に築城されたといわれ、以後、為継、義継、義明の4代に亘り三浦半島経営の中心でした。治承4年(1180)8月、頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦はいわゆる衣笠合戦として知られている。丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で緩やかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良い大善寺の平場付近にあったと推定されます。さらにその裏山がこの城の最後の拠点となる平場で金峰山蔵王権現を社がありました。またその西方の最も高い所が物見岩がある所で、その西は急峻な谷になっている天然要害の地形を利用しています。そして、土塁や空堀の跡も残されている鎌倉前期の典型的な山城です。
満昌寺 
満昌寺 (まんしょうじ)
  三浦義明は、源頼朝の応援で戦い平家の攻撃を受け、一族を逃がしひとりで城にとどまり89歳で戦死。頼朝と自分の家族のために、ひとり犠牲になった爺将に頼朝はその功績を称えている。満昌寺は義明の菩提寺です。三浦氏は後の宝治合戦で滅亡したかに見えますが、支流の佐原氏によって、血脈は受け継がれ全国に子孫が暮しています。義明の生き様は子孫の誇りとするところで、今日でも命日には各地から子孫が集まり、義明の御霊を慰め、その生き方に感銘を受けて次の世代へと継承しています。
近殿神社
 近殿神社 (ちかたじんじゃ)は、この地を治め鎌倉幕府の大勢力であった三浦義村を祀ります。
三浦氏は桓武天皇の孫、高望王が平高望と平性を名乗り、その子平良文の曾孫、平忠通の子、三浦為通より始まります。
源頼朝から遡ること4代、源氏の棟梁源頼義(988-1075)とともに前九年の役を戦った村岡(三浦)平太夫為通はその功により康平6年(1063)源頼義より三浦の地を与えられ三浦姓を名乗り、衣笠城を築きました。ここから関東における三浦氏の繁栄は始まり源氏の臣下として活躍することとなります。近殿神社に祀られる三浦義村(?-1239)は、祖父三浦義明、父三浦義澄とともに源頼朝挙兵に従い、治承・寿永の乱を通じて数多くの功をあげました。源頼朝亡き後、北条時政、義時親子によって畠山重忠、比企能員、和田義盛など有力者が次々と滅ぼされる中、策略を駆使し第3代執権北条泰時の時代まで北条氏と肩を並べる大勢力として君臨し続けます。
 薬王寺旧跡
薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212)鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられる。明治9年(1876)頃、廃仏毀釈の影響で廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重した石塔は、三浦荒次郎義澄の墓と伝えている。
 余談: 近殿神社には、三浦義村が祀られ、薬王寺には、義村の父義澄の墓があり、義村の墓は、この後に紹介される「福寿寺」にあります。
大河ドラマ 「鎌倉殿の13人」では、三浦義村を山本耕史、義澄は佐藤B作が演じています
清雲寺
 清雲寺
長治元年(1104)、三浦義継(つぐ)が為継の菩提を弔うために創建した寺で、のちに臨済宗円覚寺派の寺院となった。三浦家三代の墓所がある。当寺の旧本尊は「箭請(やうけ)毘沙門天」と呼ばれています。現在の本尊は「滝見観音」と呼ばれる観音菩薩像です。
三浦大介腹切り松
 腹切り松
  児童公園の一角に「三浦大介腹切り松跡」と伝えられる石碑がたっています。治承4年(1180 )8 月27 日朝、大介義明は大雨の中を愛馬黒雲に鞭打って城外へ出向き、大矢部の清雲寺で先祖の墓の前で「今は心に残るものなし」と別れを告げ、畠山重忠率いる敵のただ中へ乗り入れた。力戦して傷つき、ここ大矢部の傘松の下で切腹しました。この由縁からこの松は「腹切り松」と呼ばれています
満願寺
 満願寺
  満願寺の創建者は三浦義明の4男、佐原義連(つら)で満願寺一帯を領有していました。一ノ谷の戦いで源義経率いる搦手(からめて)軍に属し、「鵯(ひよどり)越えの逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇があった人物です。義連は文治5年(1189)7月の平泉攻略の奥州合戦に従軍し、その功により、陸奥国会津四郡を与えられています。

 中島三郎助   俳号は木鶏(もっけい)は、浦賀奉行所の与力で、造船技術にも精通する逸材で、ペリー来航時にはペリー艦隊旗艦サウケハナ号に乗込み、艦内を詳細に監察したことで知られる。戊辰戦争で、新政府軍に忍従することを拒否。箱館に向かい、榎本武揚配下に加わり、長男、次男とともに戦い全員戦死した。俳句に造詣が深く横須賀では彼の句碑は多く見かけます。
福寿寺
 福寿寺 (下浦町金田) 三浦義村が開基した寺院。
   三浦義村は鎌倉時代前期の三浦氏宗家の当主で三浦義澄(ずみ)の子、三浦大介義明の孫です。和田義盛は母方の従兄弟(いとこ)。北条政子、義時は父方の従兄弟にあたります。北条義時とは盟友関係にあったとされ、度重なる幕府内外の政変や戦では常に協調路線をとり、義村は三浦氏の最盛期を築いた武将とされています。特に、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したことが契機となった承久の乱では、初動から最後の戦後処理まで、幕府の命運を義時と支える陰の主役でした。幕府2代将軍源頼家を支える十三人の合議制メンバーではありませんでしたが、源氏三代や政子、義時亡き後の晩年は娘婿である三代執権北条泰時を支える評定衆として御成敗式目の制定に関わるなど幕府最有力の宿老として君臨していました。この辺り一帯は三浦義村が居城としていた地域で、義村の慰霊五輪塔墓がある
和田城址
和田城趾
  源頼朝より、侍所の別当に任じられた和田義盛は三浦義明の孫で、三浦半島の兵糧基地・和田を開拓しています。古来、武士と呼ばれる者は、自ら農地を開拓し、その農地を守る「一所懸命」という基本がありました。三浦一族は、この地で、その「一所懸命」を貫き、さらに坂東武士としての誇りを貫き通した武士団です。鎌倉幕府は、三浦一族がいなければ成立していなかったと言えるでしょう。
荒崎公園
荒崎海岸  荒崎海岸の岩石は数千年前、まだ三浦半島が海底であった頃に堆積した黒くて固たい凝灰岩と白くて軟らかい砂岩・泥岩の層により形成されています。この二種類の岩石層は洗濯板のような凹凸をした特殊な地形となり、海岸景観を魅力的なものにしています。荒崎公園内の「潮風の丘」は断崖絶壁に囲まれており、周辺の岩礁は荒波によって浸食されています。ここは「城山」とも呼ばれ鎌倉時代には三浦義澄(ずみ)が居城とした荒崎城があった場所で、1247年宝治の乱で三浦氏が滅びた後は、佐原光盛の子孫が代々ここに居をかまえたといわれています。また幕末には、幕府の命により彦根藩が台場を築いた所でもあります。