賢崇寺
 賢崇寺 (けんそうじ)

   当山は鍋島藩の菩提寺で、鍋島藩初代藩主鍋島勝茂が建立した。歴代藩主の墓が並ぶ、幕末に賢人藩主と
して知られた鍋島斉正(閑叟かんそう)の墓は、本国佐賀にあり、ここにはない。その他、名のある人が眠って
いて、元佐賀藩士で明治4年(1871)岩倉使節団に同行し、大書『特命全権大使 米欧回覧実記』を書き上げた
久米邦武、その息子で洋画家の久米桂一郎、佐賀藩出身の政商松尾儀助、祖父が佐賀藩士だったリコーの
創立者市村清、二・二六事件で受難した「二十二士」や相沢事件で死刑となった相沢三郎がいる。そして、明治
43年の七里ヶ浜沖ボート遭難事故で犠牲になった逗子開成中学校生徒12名も葬られている。  

相澤事件
  1935年(昭和10)8月12日、陸軍中佐相沢三郎が陸軍省で執務中の軍務局長永田鉄山少将を斬殺した事件。
二・二六事件の伏線となったもので永田事件ともいう。相沢はかねてから村中孝次、磯部浅一ら皇道派青年将校
と親交があり、彼らの思想に共鳴していた。1934年の士官学校事件をきっかけとして統制派と皇道派の抗争が
表面化し、翌1935年7月皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎教育総監更迭問題が起こるや、相沢は、永田が「重臣
財閥政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意するに至った。相沢
公判は1936年1月28日第一師団軍法会議で開始され、皇道派はこの公判を統制派批判に利用するため法廷闘
争を展開するが、これが行き詰まると二・二六事件決起計画に転じる。相沢は5月7日死刑を宣告され、翌日第一
師団高等軍法会議に上告したが棄却され、6月30日判決が確定、7月3日死刑が執行された。出展:日本大百科全書
 賢崇寺本堂と後部のビルは元麻布フォレストタワー