栄閑院

  久遠山栄閑院は浄土宗の寺院で寛永年間、天徳寺の塔頭として創建されました。栄閑院が開山された頃、猿回しに化けた盗賊が役人に追われて逃げ込んできました。盗賊は住職の説導に改心し、帰依して、諸国行脚に旅立ちました。残された猿は住職に懐き、寺の人気物になりました。爾来、栄閑院は「猿寺」と呼ばれるようになりました。猿塚は昭和の後半に建立されたもので、言い伝えを塚という形で具現化したものと言われています。境内には猿の彫像が2体、本堂の木鼻の下の彫りこみも猿の絵柄が見られます。その本堂西側には、江戸時代の名医「解体新書」で有名な杉田玄白の墓があります。

杉田玄白
江戸中期の蘭方医、蘭学者。玄白は通称。若狭国小浜藩酒井家の藩医の子として江戸の藩邸で生まれました。幼少時から漢学を学び、成人してから同藩の山脇東洋に師事して蘭方外科を学び、藩医となりました。そして、オランダ語通詞・吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)が長崎から江戸参府でやって来たおり、接見し、懇意になり、オランダ商館長から、蘭方外科の知識を得て、オランダ医学書「ターヘル・アナトミア」 を入手しました。明和8年(1771)春、前野良沢、中川淳庵らと江戸の小塚原の刑場で死刑囚の死体の解剖をした。その結果、オランダ語訳 ターヘル・アナトミア(解剖図鑑)に記載されている絵や図の内容が精緻であることが分かり、翻訳することを決意して、医友たちと共に着手しました。翻訳に明け暮れ、4ケ年の努力を経て、安永3年(1774)「解体新書」 5巻を完成させた。この快挙は江戸における本格的、蘭方医書の翻訳事業の嚆矢となりました。この功績が日本の医学史上に及ぼした影響はすこぶる大きく、その後の蘭学発展に 大きく貢献しました。彼ら同志の翻訳の苦心のありさまは、玄白の晩年の追想記「蘭学事始ことはじめ」に詳細に著わされています。

玄白は、主家への勤務、患者診療、往診の間、私塾「天真楼」を経営し、大槻玄沢・宇田川玄真ら多数の門人の育成に努め、蘭書の収集に注力して、門人の利用に提供するなど、ひたすら蘭学の発展に貢献した。奥州一の関藩医、建部清庵との往復書翰集「和蘭医事問答をはじめ、「解体約図」「養生七不可」などにおいて医学を論じた。そして「医学書」の著述を通じて政治・社会問題も論評している。さらに「病論会」なる研究会を定期的に開催し、広く庶民層へも医学知識の伝播にも努めている。個人的趣向として詩・歌・俳諧・連歌をも嗜(たしな)み、江戸の洋風画家たちと交流して、画作にも精通し極彩色の大幅(たいふく)「百鶴の図」をはじめとした作品を遺しています。さらに、蘭方医学の後世への持続的発展を期するべく、親友建部清庵の第五子を養子に迎え、伯元と改名させて、私塾「天真楼」の経営を継がせ、実子の立卿には西洋流眼科医院を作って独立させています。文化14年(1817)4月、病没。享年 85歳。