庄内藩酒井家 神田橋上屋敷跡

庄内藩酒井家
 徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠次を祖とする酒井家は、第三代忠勝が元和8年(1622)に庄内藩主として入部してから、廃藩置県に至る明治四年(1871)までの約250年間、鶴岡を中心とする庄内地方を治めました。酒井家の歴代藩主は、その良政で豊かで平和な藩をつくり、領民から敬い慕われてきました。
その良政の証と言える事件がありました。
(天保義民事件)
 天保11年(1840)第11代将軍家斉のとき、幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ三方領知替えによる大名3家の領地(知行地)を互いに交換させる幕命が下されました。すなわち、
武蔵国川越藩主松平斉典
を出羽国庄内、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたのであるが、この幕命に対して、庄内藩の士民を挙げた猛烈な抵抗が起きたのです。
 しかし、この一件は翌年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの政策に対する不満が高まり、同年7月に第12代将軍徳川家慶による「天意人望に従う」とする判断によって沙汰やみとなった。

今日も酒井家は庄内に暮らし、庄内のために地域振興や歴史文化の伝承に力を尽くしているそうです。