江戸水道路と神田川を行く
  2021年10月21日(木)晴 「第38回 江戸上水路と神田川界隈」 散策を実施しました。
散策コースは、飯田橋駅西口~牛込見附跡~牛込揚場跡~凸版印刷博物館~德川慶喜屋敷跡~還国寺~関口大洗堰跡~関口芭蕉庵~水神社~肥後細川庭園~永青文庫~和敬塾~田中角栄邸~日本女子大成瀬記念館~東京染めものがたり博物館~山吹の里碑~面影橋 でした。
歩数 16,200歩・ 距離  10.5km 
飯田橋駅 および 牛込見付跡周辺
 江戸城外堀
  江戸城は本丸・二の丸、三の丸・西の丸・北の丸・吹上からなる内郭を内堀で囲み、その表門が大手門です。外堀は、雉子橋門から時計回りに、一橋門、神田橋門、常磐橋門など諸門をめぐり、呉服橋門から虎ノ門、溜池から四谷門、市ヶ谷門、牛込門を経て、現在の神田川に入り、小石川門から浅草門で、隅田川に至る堀でした。外堀工事は慶長11年(1606)に雉子橋から溜池までの堀を構築後、元和4年(1618)に駿河台が掘削されて日本橋川の流路に付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川は掘留橋で締め切られ、独立した堀となりました。 寛永13年(1636)には、天下普請で外堀が構築され江戸の総構えが完成しました。この工事には、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形築造を、前田、細川、池田、黒田ら西国大名(石垣方六組)が担当し、牛込土橋から赤坂土橋に架けての外堀掘削と土塁の構築を東国大名(堀方七組)が担当しました。その後も幕府は外堀を維持するために大名の手伝い普請による堀さらいをしました。特に、牛込~市ヶ谷間の堀は、市ヶ谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積して蓮が繁ったため、普請奉行の管理下で頻繁に堀さらいが行われ、「ゴミ捨て禁止」のお触れも普請奉行から出され、外堀の維持管理が行われました。

牛込見附跡 (うしごめみつけあと)
  江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、二つの門を直角に配置した「枡形門」という形式をとっています。この牛込見附は外堀が完成した1636年に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(ただひで)によって石垣が建設されました。 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。江戸時代の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、 また周辺には楓が植えられ秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、下図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。
凸版印刷博物館
旧德川慶喜邸跡 (現・国際仏教学大学院大学)
 国際仏教学大学院大学
    1996年に霊友会の国際仏教学研究所を基礎として設立された入学定員5名、総定員20名の5年一貫制の博士課程のみを設置しており、 仏教学のみの私立単科大学院大学である。 日本で一番小さい大学でもある。
 德川慶喜終焉の地

 德川幕府最後の将軍・德川慶喜は水戸藩主・德川斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の水戸藩上屋敷(後楽園)で生まれました。16歳のとき、一橋家を相続し、幕末の動乱の最中、将軍家茂の後を継いで慶応2年(1866)第15代将軍に即位しました。しかし翌慶応3年、大政を奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対して、恭順の意を表して水戸で謹慎しました。のち、駿府に隠棲して、その地に30余年過ごしたが、明治30年(1897)東京巣鴨に転居したが、鉄道工事の騒音を避けるため、明治34年(1901)12月24日、誕生地の旧水戸屋敷に近い、小日向台のこの地に再び転居しました。慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を明治天皇から授けられ、朝敵とされた過去から名誉回復が成されました。大正2年(19131122日 急逝肺炎のため、この地で永眠しました。 享年 76

左から、喜久子(2代慶久次女)、久美子(慶久4女)、実枝子(慶久妻)、喜佐子(慶久3女)、慶光(慶喜の孫・慶久長男)です。喜久子は有栖川宮威仁(たけひと)親王の孫にあたり、有栖川宮家の祭祀をを継承する、高松宮家へ昭和5年に嫁ぐことが決まっていました。この記念写真は、その前年12月26日に行われたお誕生会のとき撮られたものです。

還国寺(げんこくじ)   古今亭志ん生、志ん朝の墓所
 古今亭志ん朝
  落語家。1938、第5世古今亭志ん生の次男として東京に生まれた。本名、美濃部強次。兄は第10世金原亭馬生。入門から五年という異例のスピードで真打に昇進。立川談志三遊亭円楽春風亭柳朝らの先輩たちを追い抜いての異例の出世で世間を驚かせた。明快、テンポの良い軽妙な語り口は大いに人気を博した。一方、人情に篤く、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行って経営を助けたのは有名な話である。
得意の演目は「居残り佐平次」「愛宕山」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「明烏(あけがらす)」など。
2001年10月1日、肝臓がんにより死去。享年63歳。戒名は「光風院楽誉観月(らくよかんげつ)志ん朝居士」。 
大日坂下
●大日坂下にある文京総合福祉センターの地は、戦前文京区立第五中学校がありました。
同校からは、旧会津藩主・松平容保の六男外交官松平恒雄、作家永井荷風、映画監督黒沢明などが輩出しています
江戸川公園界隈
 
この界隈は見所がたくさんあります
神田上水取水口 関口大洗堰跡

神田上水は井の頭池を源流とし、目白台下の関口大洗堰で水位を上げて、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れました。水戸屋敷からは暗渠で神田、日本橋方面へ配水しました。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋を架けました。その石蓋を巻石蓋(まきいしぶた)と呼びました。その後、神田上水は鉄管に代わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)まで使用されました。以降は、水戸屋敷に設けられた陸軍砲兵工廠(兵器工場)の工業用水として利用されました。  

ランチタイム
神田川に憩うサギや鯉などを眺めながらのお弁当は格別です
関口芭蕉庵

俳人 松尾芭蕉は延宝5年(167834歳のときから4年間に亘り、この地に居住して神田上水の改修工事に携わった
と言われています。芭蕉の前身は伊賀国藤堂藩の低い身分の武士で、築城土木、水利の技術に精通していたことから
藤堂藩が幕府から神田川の改修を命じられた際、ここ関口堰工事に関わったことが推察できます。
俳人松尾芭蕉として知られていますが、他の技術も身につけていた才能豊かな人物であったことが伺い知れます。

参加者全員を芭蕉庵の中で撮った写真ですが、はて、どなたが撮ったのでしょうか?
水神社
 
肥後細川庭園
  肥後細川庭園 (平成29年3月新江戸川公園から名称を変更)は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園である。当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。昭和35年(1960)に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園した。昭和50年(1975)文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水(わきみず)が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式池泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。
 松聲閣の二階和室より庭園を望む
 
 
永青文庫
 永青文庫は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。昭和25年(1950)旧熊本藩主細川家16代当主細川護立(1883 – 1970)によって設立された。伝来の美術品、収集品、歴史資料などを収蔵し、展示、研究を行っている。目白台の閑静な住宅街のなかにある。細川護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である*建仁寺塔頭永源院の「永」と、細川幽斉の居城・青龍寺城の「青」から採られている。一般公開されるようになったのは、当主が第17代細川護貞になった昭和47年(1972)からである。正宗の名刀をはじめ8点の国宝や狩野元信、宮本武蔵、菱田春草らが描いた絵画など多数の重要文化財を所蔵している。所蔵品は芸術新潮編集部 編『細川家の700年 永青文庫の至宝』で詳しく紹介され、現在の第18代当主・理事長で元首相の細川護煕も執筆している。* 建仁寺:京都市東山。栄西が開山した臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
和敬塾
 和敬塾(わけいじゅく)
  公益財団法人和敬塾は、男子の大学生・大学院生のための学生寮です。(株)前川製作所の創業者、前川喜作によって、「共同生活を通じて社会人としての「知性と徳性を備えた人材の育成」を趣旨とし、昭和30年(1955)に設立されました。和敬塾の名称は、聖徳太子の十七条の憲法の第一条「以和為貴」(和を以て貴しと為す/から採られ、「和」は「人と人との和」や「四季の自然に心から和む」こと、「敬」は「人を敬う」だけでなく「真理を敬う」ことを意味し、国内外の様々な地域から集まった約300名の男子大学生・大学院生が共同生活で学んでいます。特定の大学を対象とした学生寮ではなく、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の学生寮を参考にして構想されたと伝えられています。塾生の在籍大学は様々で首都圏の数十の大学にのぼっています。同寮では、湯川秀樹、ライシャワー米大使、中曽根康弘、田中角栄堺屋太一、森繁久弥、川上哲治など各界の著名人が講演を行っている。また、作家の村上春樹は同寮の出身者で作品『ノルウェイの森』では、和敬塾を思わせる学生寮がシニカルに表現されています。和敬塾本館は、旧細川侯爵邸(元首相細川護煕もりひろの祖父)で、昭和初期の代表的華族邸宅です。
田中角栄邸と目白台運動公園
  田中角栄元総理は、1993年に逝去され、その遺産相続額は約120億円を有し、そして相続税は65億円に及んだと言われています。それだけの納税金額を現金で支払うことが出来ないため、目白御殿の庭園の約60パーセントあたる約3200平方メートルの土地を物納として、文京区に支払ったそうです。物納された土地は、文京区が所有している土地に加えられ、現在、「文京区立・目白台運動公園」として野球、テニス、遊具施設など‎に使用されおります。つまり、田中角栄の遺産は都民のレガシーとして残されたことになりました。「角さんは庶民の味方」ですね。残された田中邸には長女の眞紀子さんと夫直紀氏が住んで居るそうです。表門表札の「田中」名は、田中角栄氏直筆の書であり、住所には番地が入っていないのが印象的です。
 田中邸に隣接している目白台運動公園
日本女子大学
 日本女子大学の創設者 成瀬仁蔵は長州藩の下級武士に生まれた。幼き頃から学問、武道に励み、父が従事していた県内学校で教鞭を取りながら、女子教育の必要性を感じていました。大阪に出て、さまざまな教育の現場に触れていくうちうち、自ら外国の教育について、学ぼうと、単身ボストンの神学校へ特別製として留学しました。そこで世話になった牧師の家庭教育に感銘を受けました。帰国してからは日本の女子高等教育機関の設立のために一心不乱に邁進し、政治家、財界人を訪ね、協力を得る活動を起こしました。伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、渋沢栄一らへの働きかけは、その情熱が伝わり、三井家からは東京目白台の土地の寄付を受けました。この地に、女子教育専門学校を建設すると、その設立理念に賛同した平塚雷鳥らが入学してきて、一層その名が知られ、女子教育の先駆的学び舎として広く、高い支持を得て、明治34年(1901)日本女子大学校の創立を果たしました。その時、仁蔵 43歳でした。以後、紆余曲折が昭和の時代に諸事発生しましたが、女子教育の品格の高いオピニオンリーダーとしての役割は今日に至ってもつづいております。
東京染めものがたり博物館・山吹の里碑・神田川歌碑
東京染めものがたり博物館
 江戸幕府の発展とともに、人々の着物は小紋染めや更紗染めなどが定着し、それとともに染色業者が多数登場しました。良質の水が豊富な神田や浅草に住居を定めましたが、明治以後は水の汚れが進み、染色に適した水を求めて次第に神田川の清流をさかのぼり、江戸川橋へ、落合へと移転。これ以後、神田川流域には染色とその関連業者が多数集まり、新宿の地において発展しました。現在では新都心・新宿の数少ない地場産業として伝統の技を継承しています。東京染ものがたり博物館では、東京染小紋と江戸更紗を中心に、染色の技法や作品を語り継ぎ、粋でモダンな感覚を織り込んだ工房活動を紹介しています。貴重な伝統工芸を未来に語り伝える努力が行われています。見学無料。
 山吹伝説
 道灌が父を訪ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出され、いぶかしく、内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後、道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。
面影橋 (おもかげばし)
 30余年前かぐや姫が歌った名曲『神田川』はこの面影橋辺りを歌ったと言われています。『神田川』は作詞をした喜多条忠さんが早大の学生だった頃に同棲していたときのエピソードを書いたといわれています。「赤い手拭いマフラーにして二人で行った横町の風呂屋」は新宿区西早稲田3丁目にあった「安兵衛湯」という銭湯で今はもうマンションになってしまいました。そして「窓の下には神田川」が見えるということは川沿いのアパートということでしょう。いまではすっかり見かけなくなった「3帖1間の小さな下宿」も、もうすでにありません。また、左写真『神田川』の歌碑は面影橋にはなく、少し神田川を上った末広橋にあります。