第35回 お江戸散策 川越界隈 解説
川越の歴史概要
川越の地は豊かな美しい土地を意味する「三芳野の里」とも呼ばれ、伊勢物語などでも歌われています。平安時代から鎌倉時代にかけて武士の荘園支配が進みます。川越の名前の由来ともいわれている河越氏が鎌倉幕府の御家人として勢力を持ち、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻になっています。しかしながら源義経が兄頼朝と不和になって、滅ぼされると頼朝との関係も冷え込み、鎌倉に抑えられるようになり衰えていきます。その後、執権北条氏の世になって、河越一族は再び盛り返すが、足利の時代に入ってから、反乱を起こして、鎌倉公方の関東管領上杉憲顕に滅ぼされます。その後、関東管領・扇谷上杉持朝が川越一帯を治め、家宰の大田道真・道灌の父子に初雁城とも呼ばれた美しく、堅固な川越城を築かせます。城下は町を広げながら発展していきます。その後、後北条氏(小田原・北条)が川越城に夜襲をかけて、城を奪い、以後、同城を起点にして関東北部に勢力を伸ばして、武蔵・上野・下野をその支配下に治めてきたが、豊臣秀吉によって滅ぼされてからは、 天正18年(1590)関東に移ってきた徳川家康の支配下となり、川越藩が置かれました。江戸幕府は川越を江戸の北の守りとして重要視し、有力な譜代大名を配置しました。その大名のひとり老中松平信綱は城下町を整備し、舟運を起こして江戸との物流を活発にさせます。この舟運は新河岸川から墨田川へと伸び、浅草に物資を運んだあと、帰りの便では川越に江戸の最新の文化を持ち帰りました。こうして商人の町としての川越は小江戸と呼ばれ幕末まで賑わいました。 明治に入っても川越は穀物流通の中継地として、ばかりでなく、桐のたんすや粋な川越唐桟織物の産物は、江戸で人気になりました。こうして商業都市としても大いに繁栄しつづけました。しかし、災難にも見舞われ、川越は幾度となく火事にあっています。明治26年(1893)の大火では町の3分の1を焼き、そのとき川越商人は耐久性を備えた蔵づくりに取り組みました。今日も残る蔵づくりの町並みは、その時、財力を注ぎ込んで造られた土蔵造り店舗の名残りです。

01. 熊野神社
銭洗弁財天の強い不思議なご利益から金運が高まると信じられて参詣者が多い。熊野神社は、明治期の内務省が制定した神社明細帳によると天正18年(1590)蓮馨寺・然誉上人が紀州熊野より勧請したことに始まり、以後、近郷の人々が氏神として崇敬したと伝わる。下って、正徳3年(1713)社殿を改築し鳥居を石造りとした。現在ある二の鳥居がそれである。御祭神は熊野大神と夫婦の神様(伊弉諾尊いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祀られていることから、縁結びの神社として信仰されている。境内の厳島神社には、銭洗弁財天が祀られており、傍らの宝池で金銭を洗い清めると同時に心身が清められ、不浄の塵(じん)垢(こう)が消えて清浄の福銭になると信じられ、金運を願う参詣者が多い。
  02. 蓮馨寺(れんけいじ)
蓮馨寺は天文18年(1549)、時の川越城主・大道寺政繁が母蓮馨尼を追福するために増上寺の高僧・感誉上人を招いて開山した浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来像。慶長7年(1602)浄土宗関東十八壇林の制度が設けられると、葵の紋所が許され、僧侶の大学(壇林)として栄えた。しかし、明治26年の大火で鐘楼・水舎を残して、本堂、講堂などを全焼してしまい、現在の堂は、その後の建築である。当山が多くの人に信仰されているのが“なで仏”と呼ばれる「おびんずるさま」で、お釈迦様の16人の弟子の一人である。その霊験は、体の痛い所と同じ部分を撫でると患部が良くなると云う言い伝えがあり、おびんずるさまの体は、健康や長寿を願う人に撫でられていつもぴかぴかである。


03. 蔵造り街並み
大正浪漫夢通りと謳われ、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

「亀屋」:川越藩御用達菓子商
「山崎美術館」:菓子商、茶の輸出で財を成した山崎家が収集した美術、骨董、工芸品を展示している
「旧山吉デパート」:呉服商・渡辺吉右衛門が開いた「山田屋」から川越最初の百貨店「丸広」になった。
「荻野銅鉄店」:神田鍛冶町金物商・北野操六が開いた店で、操六は江戸の文人たちと交わり、石川雅望の弟子になり、太田南畝らとも交流を持った。
「第八十五国立銀行」川越藩御用商人だった横田五郎兵衛、黒須喜兵衛らによって設立された県内最古の銀行で、紙幣発行は1879年〜1899年まで行われた。昭和18年(1943)に武州・忍商業・飯能とともに埼玉銀行に合併され、同行の川越支店になった。その後、協和、あさひ銀行を経て、現在、埼玉りそな銀行川越支店として営業している。

「時の鐘」
川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。今から約400年前、川越藩主・酒井忠勝によって創建された。以後、度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。 現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。木造三層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の1日4回鳴る。
「蔵づくり資料館」:煙草卸商を営んでいた万文の建物。明治期の煙草のラベルや荷車等を見学可。\100.
「町勘」:天保期(1830年代)に宮岡正兵衛に創業された金物商で現在に至る。

「大沢家住宅」:明治26年(1893)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。国の重要文化財の指定。

「六塚稲荷神社」:高沢橋の袂にあり、小さな本殿に江戸彫り彫刻が残されている。
「本応寺」:蔵づくりの一切経蔵を見ることができる。
「広済寺」:濯紫公園の北側にある寺院。水戸藩19烈士埋葬地の史跡に指定。威風堂々の本堂が素晴しい。
04. 養寿院
養寿院は曹洞宗に属し、寛元二年(1244)、秩父平氏の末裔河越経重が開基した古刹である。開創当初は天台系密教寺院であったが、天文4年(1535)時、曹洞宗寺院となった。徳川の時代になり、家康公が川越にご来駕の折、御朱印十石を賜るなど、歴代川越城主の信仰も篤く多いに栄え、かつては曹洞宗専門僧修行道場として多くの人材を輩出した禅寺である。
05. 東明寺
川越夜戦は、室町時代に起こった川越城をめぐる戦いです。元川越城の主、扇谷上杉朝定が川越城を奪還しようと、山内上杉憲政、古河晴氏と連合軍を組み川越城を包囲。連合軍は約80,000の大軍。それに比べ包囲された川越城に篭城する北条軍は約3000人。約半年間、篭城していた北条軍に、氏康が送った援軍約8000人が到着。闇夜に乗じて連合軍に奇襲をかけ、見事勝利をしました。油断をしていた連合軍は、散り散りに敗走。北条軍の死傷者が若干名であったのに対し連合軍は、10000人近い死傷者を出したといわれている。河越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内には、河越夜戦跡の碑が建てられ、将兵の遺骸を納めた富士塚が残る。宝暦年間に掘ったところ髑髏が500体ばかり出たという。
06. 川越氷川神社
武蔵国一宮・氷川神社から分祀を受けて、6世紀ころ創建されたと云う“縁結びの川越氷川神社”は、小江戸・川越の総鎮守として信仰を集めた。それを象徴する「川越氷川まつり」は、慶安年間・時の城主 松平伊豆守信綱のときに、江戸の天下祭の形を取り入れてはじまり、長い歴史を刻んで、毎年10月第3週の土・日に、川越の周囲10ケ町が参加して開催され、多数の神輿や山車、太鼓などが繰り出されて盛大に繰り広げられる。本殿の江戸彫り装飾は圧巻。大鳥居は高さ15m。社号は勝海舟筆による。
  07. 本丸御殿
川越城は関東管領・扇谷上杉持朝が古河公方足利持氏に対抗するために、家宰の大田道真・道灌の父子に命じて、築かせたのが始りである。天文6年(1537)後北条氏の支配になり、上杉氏が奪還を図ったが、後北条軍の援軍による奇襲夜戦で、上杉が敗走し、天正18年(1590)年まで後北条が治めてきたが北条が豊臣秀吉に降伏して以降、徳川家康の支配下になり、代々、徳川譜代の大名が治めてきた。島原の乱以後、老中松平信綱が城主になってから、川越城の拡張・整備が行われ、野火止め用水の開削、城下10町の寺請制度施行、街道、舟運の整備などが行われて、江戸との関わりが深まると、城下は次第に豊かに発展していった。本丸御殿は、まさしく川越城の中心であった。
  08. 三芳野神社
三芳野神社は平安時代から同所にあったが、川越城築城により天神曲輪(くるわ)に位置することになり、「お城の天神さま」と呼ばれていた。 城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、庶民の信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められようになった。 しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門(たひろもん)を通り、富士見櫓を左手に見て、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道を通ってお参りしなければならなかった。 また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことを防ぐため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。 そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになって、童謡「とおりゃんせ」うまれた。唄は城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。
〔童謡: 通りゃんせ〕
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ

この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ 
   09. 喜多院
この寺院一帯には、平安時代慈覚大師円仁が開いた無量寿寺があり、北院、南院、中院と云う塔頭があったと云う。慶長4年(1599)徳川の世になり、この無量寿寺第27代住職に、家康の信任が篤かった慈眼大師・天海僧正が入山して来た。北院は「東叡山喜多院」の名を受け、幕府の全面支援の基に発展していった。1613年には関東天台宗580余寺の本山となった。1638年の川越大火では、堂宇が悉く焼失したが、3代将軍、徳川家光の支援で、江戸城内、紅葉山にあった客殿や居間が移築されたと云う。徳川家光誕生の間や春日局化粧の間が当院にあるのはこのためである。庫裡とともに国重文に指定されている。その他、多宝塔、慈眼堂、鐘楼など見どころが多い。また、院の東側にある五百羅漢像は飢饉や火災などの社会不安を背景にして、豊穣祈願する人々の思いと、先祖供養・子孫繁栄を祈念する目的に
作られた。像に切断痕や破損があるのは、明治初期に起きた廃仏毀釈運動の影響によるものである。
   10. 仙波東照宮
元和3年(1617)徳川家康が死去すると、遺言どおり、家康の遺骸は久能山から日光へ移されることになり、途中、3月23日〜26日の4日間、喜多院で天海が導師となり、衆憎を集めて、丁重な法要が行われた。その後、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年、仙波の地に天海によって東照宮が創建された。寛永15年(1638)の川越大火で焼失するが、三代将軍・徳川家光は老中・川越藩主の堀田正盛に造営奉行に命じて再建させた。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営である。本殿には木像の家康公像が祀られ、本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並んでいる。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国の重要文化財。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。石鳥居は寛永15年(1638)に老中・堀田正盛が奉納したものである。
   11. 中院
喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、閑静な佇まいが趣のある寺院。古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わり頃、無量寿寺から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られており、境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室・不染亭があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。また、境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石の「蓮月不染之墓」という