第34回 お江戸散策 両国橋・蔵前界隈 解説
1. 両国橋
両国橋は隅田川に架かる橋として、千住大橋に次いで2番目に架けられた橋である。幕府は江戸防衛の見地から、架橋を許さなかったが、明暦の大火を契機に、万治元年(1658)全長98間(178m)の橋が完成した。当初、大橋と呼ばれたが、武蔵国と下総国の両国に架かることから両国橋と云われるようになり、この名が公称になった。橋が架かると、いままで未開の閑粗地であった深川は開発が進み、都市化して発展していった。橋の両詰めは火除け地広場として、火事の際、人々が橋を渡りやすくする空間を設け、両国広小路と呼ばれていた。次第に世の中が平穏になってくると、両国広小路には簡単な作りで撤去が容易に撤去できる建物であれば、商人たちに建築許可されるようになり、屋台風のそば屋、すしや、見世物小屋などが出来て、賑わいを見せて行った。両国側の回向院境内では勧進相撲が行われ、1700年代には、疫病の死者供養と災厄除去を祈願した花火まつりも毎年夏に行われることになり、沢山の人々が集まる江戸の繁華街として発展していった。
2. 薬研堀不動院
薬研堀不動院は、中央区東日本橋にある寺院で、真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の東京別院である。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている。住職は平間寺貫首が勤めている。御本尊(不動明王)は、崇徳天皇の代、保延3年(1137)に真言宗中興の祖と仰がれる興教大師・覚鑁(かくばん)上人が、43歳の厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻)され、紀州・根来寺に安置されたものです。 その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭った際、根来寺の僧都がそのご尊像を守護して葛篭に納め、それを背負ってはるばる東国に下り、隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりです。その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり、順天堂の学祖・佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講した場所でもある。
  3. 柳橋(やなぎばし)
柳橋は神田川が隅田川に合流する場所に、元禄11年(1698)に架けられた。柳橋の名は、神田川下流の柳原堤からとも、橋の袂にあった柳に因むものとも云われている。橋の一帯は隅田川の舟遊びの屋形船や吉原、向島通いの猪牙船を仕立てた船宿が軒を連ねた。今日でも釣り舟や遊覧船が川面に浮かび、往時を偲ばせてくれる。江戸後期からは、高級料亭街・花街として発展し、明治に入ると旧幕臣たちや新政府の高級官僚たちに贔屓にされ、新橋と並び称されるようになった。初代首相・伊藤博文が行きつけた「割烹料亭・亀清楼」をはじめ数軒の料亭が現在も続いている。
4.浅草御蔵跡
浅草御蔵は、幕府が全国に所有する天領から運んだ年貢米や買上米を収納、保管した幕府の米倉庫で、元和6年(1620)鳥越神社が所有する一帯の約2万坪の広大な丘を切り崩して、隅田川西岸の奥州街道沿いを埋め立てて造営した。寛政年間には蔵の数・54棟、収蔵された御蔵米は常時120万俵あったと云う。浅草御蔵の街道に面した側を「御蔵前」と呼び、蔵米を扱う米問屋や札差の店が建ち並んでいた。蔵奉行の管理下に置かれた御蔵米は非常用備蓄の他は、旗本・御家人に支給されたが、請取、換金の業務を引き受けて、手数料を得たのが札差である。彼らは、のちに蔵米を担保に金融を行って経済的実力を高めて行った。そして、この業務を支配して多額の財力を持つ商人が登場してきた。田沼時代には文化や遊興の世界で「通人」(通客・粋人ともいう)が多く輩出した。
5.首尾の松
隅田川に面した岸に立ち枝が川面の掛かっていた松で、当初は碑から100m下流の浅草御蔵四番堀と五番堀の間にあった。名の由来は、隅田川を遡り、吉原へ遊興に行く人たちが、その成果(首尾)を語り合った所とも、海苔を取る道具「ひび」が訛ったものとも云われている。現在の松は七代目である。

6.浅草天文台跡
江戸時代後期、幕府の天文、暦術、測量、地誌編纂、洋書翻訳を行う役所として「天文方」の施設が置かれていた。規模は周囲94m、高さ9.3mの築山の上に、5.5mの天文台が置かれ43段の階段があった。施設は伊能忠敬の師である天文方の高橋至時が管理し、伊能忠敬はこの施設で方位と測量を学ぶため、住居の深川から徒歩で通い、その間の歩測を正確に記録して、その後の偉業「全国測量図作成」に役立てたと云う。
7.鳥越神社
鳥越神社の御祭神は日本武尊。平安時代、源頼義の奥州下向の際、鳥が飛び立って浅瀬の入り江がわかり、渡河が出来たことから鳥越の名が生れたとの伝承をもつ。当社は、正月の注連縄(しめなわ)や飾りなどを焼く1月8日の「どんど焼き」や、6月に行われる例大祭が有名で都内随一の重さを誇る千貫神輿の練り歩きは圧巻で、江戸三大祭り(神田・三社・日枝)にも劣らぬ盛大な祭りが展開される。夕刻からの宮入道中と呼ばれる夜祭は荘厳にして幻想的なまつりとして人気がある。
  8. 西福寺
西福寺は江戸浄土宗四カ寺の随一で松平西福寺とも呼ばれた。元、三河にあったが家康の江戸入府とともに江戸に移り、家康の側室於竹の方(武田信玄の娘・竹姫)の菩提寺になった名刹である。当山には、北斎の師匠にして、勝川流の祖・勝川春章の墓所がある。春章は人気の歌舞伎役者や力士たちを、似顔絵を用いた写実的な作風で描き、一世を風靡した浮世絵師である。晩年には、緻密な肉筆美人画を手がけたことでも知られている。春章の門下には春好、春英、春潮ら人気絵師が出て活躍し、勝川派は浮世絵界で大きな勢力を誇った。「葛飾北斎」も若いころ春章の門を叩き、勝川春朗という名前で青年時代を過ごしている。そして春章が発展させた役者似顔絵の手法は、東洲斎写楽や歌川豊国ら、のちの浮世絵師たちにも多大な影響を与えている。つまり春章の存在無くして、北斎や写楽が世にでることはなかったとも言われている。その他、戊辰戦争で敗れた彰義隊士の「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓や江戸町年寄の三家の一人・樽屋藤左衛門の墓がある。
  9.龍宝寺(川柳で知られる寺院)
天台宗の寺院。寺の一角には柄井川柳の墓がある。柄井家は代々江戸浅草新堀端、竜宝寺門前町名主の家系で、宝暦5年に家を継いで名主となった。俳句を嗜んでいたが、宝暦7 (1757) 年江戸の前句付点者のうち,時代性を察する早さ,選句の公平さと巧みさにより人気を得,以後 33年間にわたって江戸前句付点者の番付首位に立ち,230万句もの投句を集めた「俳風柳多留」を選集し、川柳を独立した文芸のあらたなジャンルとして確立させた。寺の右手には辞世「木枯らしや 跡で芽を吹け 川柳」の碑が建っている。
(例) 斬りたくもあり、斬りたくもなし(後句)、 
盗人を捕えて見ればわが子なり(前句付)
  10. 榧寺(かやでら)
浄土宗池中山 盈満院正覚寺と号したが、現在は「榧寺」が正式寺名。当山、墓所には江戸の狂歌師・石川雅望、明治・大正期のジャーナリスト・長谷川如是閑、第37代横綱・安芸の海らの墓がある。
石川雅望:江戸小伝馬町で家業の宿屋営むかたわら、狂歌の先達大田南畝に弟子入りして狂歌を学んだ。天明年間初期、狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎から多くの狂歌絵本を出版して名声を得た。人気作家「偐紫田舎源氏」で知られる柳亭種彦は弟子。寛政3年(1791)宿屋の営業許可をめぐり贈収賄の嫌疑をうけ、江戸払いとなった。
長谷川如是閑:東京都生まれ、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、作家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した
安芸の海:広島県出身の元大相撲力士。第37代横綱。本名は永田節男。双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。双葉山が敗れたとき、実況した和田アナウサーは「双葉敗る!、双葉敗る!、双葉敗る!、時に昭和14年1月15日。旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す!双葉、70連勝ならず!まさに70、古来やはり稀なり!」と絶叫したという。この日、アナウサーも有名になった。安芸の海はこれを契機に一層精進して、ついに横綱にまで昇進した。
11. 蔵前神社
御祭神:菅原道真。元禄6年(1693)8月、五代将軍徳川綱吉が石清水八幡宮を当地に勧請して、江戸城鬼門の守護神ならびに将軍家祈願所の一社として御朱印社領二百石を寄進した。江戸時代には蔵前八幡あるいは東石清水宮と称され、庶民からも崇敬を集め、関東地方における名社の一つに数えられた。当社の創建当時は境内地も2270余坪を有し、勧進大相撲の開催も23回におよび、この間大関谷風・大関雷電・関脇小野川などの名力士も当社境内を舞台に活躍し、賑わいを呈した。 明治以降神仏分離令により別当寺は廃止され、明治19年4月石清水八幡宮と改称する。大正12(1923)年9月の関東大震災により社殿焼失、その後再建されたが、昭和20年(1945)3月の戦災により、また焼失した。その後、隣接の福徳稲荷と北野天満宮を合祀し、昭和26年(1951)に「蔵前神社」と改称した。