第33回 お江戸散策  石神井公園・観泉寺・妙正寺界隈 (解説版)
1. 長命寺(ちょうめいじ)
当山は、慶長18年(1613年) に後北条氏の一族である慶算阿闍梨(けいざんあじゃり)によって弘法大師像を祀る庵を作ったのが始まりといわれている。甥にあたる増島重俊によって観音堂・金堂などが整えられた。その後寛永17年(1640年) 奈良・長谷寺の小池坊秀算により十一面観音像が作られ、「長命寺」の称号を得た。その後、1648年に三代将軍・徳川家光により朱印地を賜り、朱印寺として著名になったとき山号を谷原山と称することになった。慶安5年(1652)に徳川家光の一周忌を追悼して高野山奥の院を模した多くの石仏・石塔が作られてからは「東高野山」とも称されるようになり、人々から信仰を得るようになった。金堂は幾度もの火災により焼失し、現在の金堂は明治37年(1904) に再建されたものを昭和46年 に修復したものである。また観音堂も幾度か焼失の目に遭い、現在のものは昭和54年に再建されたものである。仁王門は17世紀後半、鐘楼は慶安3年(1650)に造られたもので、練馬区指定有形文化財に指定されている。

   2. 榎本家長屋門
長屋門とは扉脇に下働きの人の居所(長屋)または物置を備えた門のことで、江戸時代の民家においては、村役人または苗字帯刀を許された家の門形式として幕府から認められていた。江戸時代末期の建築と推定される旧田中村の名主榎本家の役宅門である。桁行は13.5メートル、梁間は4.5メートルある。門の入口は観音開きの板戸が建てられ、脇間右側には潜り戸が付いている。外壁は上部が漆喰仕上げで、下部が板張になっており、軒裏は三方船枻造りとなっている。屋根は、母屋を切妻造とし、その四方に日差しを葺き下して一つの片流れの屋根とした入母屋造で、大正13年の火災により屋根は茅から鉄板に葺き替えられている。
● 漆喰:日本特有の塗壁材で消石灰に砂や海藻のりそしてひび割れを防ぐスサを混合して水で練ったもの。
● 三方船枻(さんぽうせんえい)造り:柱の上部から腕木を出して支える棚をもつ民家のつくり




3. 観蔵院(かんぞういん)
当山は、正式には真言宗 智山派慈雲山曼荼羅寺(まんだらじ)と号する。豊島八十八ヶ所霊場81番札所で、三宝寺に隣接する塔頭として創建されたが文明9年(1477)当田中の地へ移転したと伝わる。本堂に続いて薬師堂があり安置されている薬師如来は日出薬師と呼ばれ、十二神将を配している。山門前には六地蔵や庚申塔などの石造物がある。境内には文化5年(1808)建立の「施主筆子中」と銘のある筆子供養塔がある。この筆子供養塔は教えを受けた生徒が亡くなった恩師の菩提を祈り建立したものであり、これはかつて観蔵院で寺子屋が開かれ、近隣の子供達の教育に寄与していた歴史が確認できる貴重な遺跡である。墓地には元和年間(1615-24)の五輪塔や夫婦墓なども見られる。 現在の本堂は昭和60年に、薬師堂と客殿は平成4年に落成したものである。山門は平成14年に建て替えられ、庫裡は染川英輔氏が描いた観蔵院両部曼荼羅や日本の仏画・ネパールの仏画・ミティラー民俗画などを所蔵・展示している「曼荼羅美術館」を兼ねている。

4. 禅定院(ぜんじょういん)
当山は、真言宗智山派照光山禅定院無量寺といい、豊島八十八ヶ所霊場第70番札所で、本尊は阿弥陀如来。「新編武蔵風土記稿」によれば、今から約600年前、願行上人によって開かれた。文政年間(1818-30)の火災で、建物・記録などことごとく焼失したが境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができる。 門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立された。本堂前の寛文13年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられている。墓地入口には疣(いぼ)取り地蔵や墓地内に寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚がある。

5. 道場寺
当山は曹洞宗豊島山道場寺と云い、武蔵野三十三観音霊場第2番の寺である。文中元年(1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(第15代執権北条高時の孫)が、大覚禅師(蘭溪道隆)を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺とした。しかし豊嶋氏は文明9年(1477)に太田道灌に敗れたとき、諸堂宇は灰燼に帰した。境内には豊島氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔三基があり、今でも豊島氏の菩提が弔われている。道場寺には、北条氏康印判状のも所蔵されている。この印判古文書は、100余年を経た永禄5年(1562)4月21日、戦国武将小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状で、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除することが書かれている。練馬区に存在する唯一の後北条氏の文書である。現在の堂宇は天平の往時を偲び、唐招提寺金堂を模し、堂内には木彫りの三尊仏、等身大の聖観世音像及び薬師如来が安置されている。境内には山門、鐘楼、三重塔(総欅材)が建立されており、三重塔(昭和48年建)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されている。その他、練馬区最古の青石塔婆や出土した土器石器もある。
段銭(たんせん):中世の租税の一。即位・大嘗会(だいじょうえ)(天皇即位の儀式)・内裏修造・将軍宣下などの費用として,朝廷・幕府・守護などが一定地域に公田の面積に応じて一律に課した臨時税。
●懸銭(かけせん):- 一般には頼母子(たのもし),無尽(むじん) と呼ばれるもので、中世の貨幣融通方式において,この組織(講)に参加する人々が 寄合(よりあい)ごとに持ちよる少額の出資金のことを云う。


6. 三宝寺
当山は、真言宗智積院派の寺院で亀頂山三宝寺と云うが、通称「石神井不動尊」と呼ばれている。応永元年(1394)年、権大僧都幸尊が下石神井村に建立したと伝わるが、石神井城落城の後、太田道灌によって現在地に移された。延宝3年(1675)銘の梵鐘は、芝増上寺の大鐘の鋳た余銅で鋳造したものである。山門は、三代将軍徳川家光が鷹狩りの際、立ち寄ったときに建てられ、御成門と呼ばれている。現在の山門は文政10年(1827)に再建されたものである。山門東の長屋門は勝海舟の屋敷から移築されたものである。境内には多くの石造物や碑があるが、山門を入ってすぐ左にある田島鉄平君の碑は明治期の石神井地域の養蚕産業が発展していたことが記されている。その他、寺宝として文明4年(1472)の銘がある「来迎三尊仏画板碑」がある。

7. 氷川神社
 「石神井のお氷川さま」と呼ばれる氷川神社は豪族豊島氏一族の守護神として石神井城内に武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのがはじまりである。当時の豊嶋氏が治める領地の中心は、現在の池袋から豊島園遊園地の辺りであったと伝えられており、現在の「豊島区」という地名は豊嶋氏に由来するものである。石神井城はその領地の西方を護る砦であった。また同時に豊かにして貴重な水源地である、石神井池(現在の三宝時池)を護る意図もあったと云われている。やがて栄華を誇った豊嶋氏は大田道灌に攻められて、落城し、その勢力を失ってしまった。しかし石神井郷の村民の氷川神社への尊祟は篤く、総鎮守社として仰がれて存続し、現在に至っている。また、勢力が失われた豊島氏であるが、一族の神社に対する尊崇の念は篤く、江戸時代の元禄年間には豊嶋氏の子孫、豊嶋泰盈(やすみつ)・泰音(やすたか)により石燈籠一対が奉納されている。明治期には社格制度で郷社として社殿、拝殿が新装され、それから100余年を経て、平成4年に新社殿が竣工し流麗な美しい姿を留めている。約二千余坪の広い境内には老樹が生茂っており、隣接する石神井公園とともに、本社境内周辺は早くから東京の風致地区・ 禁猟区に指定され、往昔の「武蔵野」の面影を残している。また、近くにある厳島神社は、江戸時代には、弁天社、水天宮としてあった社で大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社が合祀され社殿は昭和58年に竣工されたものである。

8. 観泉寺(かんせんじ)
観泉寺は、慶長2年(1597)に戦国大名今川義元の子、氏真を開基として、下井草に建立された。この時の寺名は観音寺であったが、後に、現在地に移転して観泉寺となった。江戸幕府3代将軍徳川家光のとき、氏真の孫今川範英(のちに直房)が高家として幕府に仕え、東照大権現宮号の宣下に際して、幕府から朝廷への使者として功績をあげ、上・下井草村を加増された。高家とは、幕府の儀礼に関する諸事を司る役職で、吉良、今川、畠山など古来の名家が任ぜられ、石高は1万石以下であるが、官位は大名に準ずる厚遇を授かっていた。幕末には、今川氏真から12代目の今川範叙(のりのぶ)が若年寄に抜粋され、大政奉還後には、15代将軍徳川慶喜助命嘆願にも活躍している。明治維新後でも政府の重要役職に就いている。このように今川家は、戦国時代の有力大名・今川義元が、桶狭間で織田信長の奇襲に遭(あ)って討ち死にしたあと、子の氏真の代で歴史から消えたと思われたが、義元の孫の代で、かっては、今川の人質だった徳川家康に救われ、その家臣となり江戸幕府の朝廷や公家との交渉役の奥高家として活躍するのである。まさに、戦乱の時代が終わり、天下泰平の世になると、幼少期より見に付けた和歌、剣術、蹴鞠という特技が幕府の中で十分活かされて、その存在は子孫たちが、幕末そして明治に至るまで輝き続けたのである。堂宇の本堂、観音堂、秋葉堂などは近年改修されたが、江戸時代の建築を遺してあり貴重なものである。墓所には今川家累代の墓碑20基が並んでいる。また、この一帯は江戸時代を通じて、今川氏の知行地であったことから、今川の町名は今川家に因んでいるのである。

   9. 妙正寺
当山は、文和元年(1352)に下総国の中山法華経寺)第三世・日祐上人によって妙正寺池のほとりに堂を建て、法華経守護である天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を勧進し奉ったのが始まりであるといわれている。正保3年(1646)に社殿を再建し、その三年後の慶安2年(1649)に徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄ったのをきっかけに葵の紋幕と朱印地・五石を賜り御朱印寺として有名になった。本堂は天保元年(1830)に焼失したが、その後の天保3年(1832)に再建し、昭和6年(1931)に改築され現在に至っている。本堂には本尊のほか安産に霊験ある鬼子母神像(かつて江戸城大奥にあったもの)や妙正寺池の弁天島にあった弁財天が祀られている。

   10. 鷺宮八幡神社
鷺宮八幡神社が創建されたのは、康平7年(1064)に前九年の役に勝利し東北を平定した源頼義が戦勝を感謝し、国家と源氏の安寧を願い建立したのが始まりとされる。「新編武蔵風土記稿」(1884)には、その昔、境内に老樹が林立し、鷺が多く棲息していたことから、近隣の里人は鷺宮大明神と称し、これが地名の由来となった。正保2年(1645)、この地の領主であった今川直房によって八幡神社と改称し、数年後、江戸幕府より御朱印7石余を寄進され、中野区内においては唯一、朱印を付与された神社となる。また、新編武蔵風土記稿には別当寺として隣接している福蔵院が就いていたことも記されている。

11. 福蔵院(ふくぞういん)
当山は旧鷺宮八幡神社の別当であり、開山・頼珍和上は、当院過去帳によれば大永元年(1521)入寂したことが記録されている。その後、江戸時代の宝暦12年(1762)に火災に遭い、堂宇すべて灰塵に帰したと言われている。現在の本堂、庫裡は第29代住職・星野俊英が住職時の昭和35年に落慶したものである。また、本堂右手の鐘楼堂は昭和38年に完成した。当院はもともと旧野方村、上鷺宮、下鷺宮の農民たちの菩提寺としてその役割を果してきた。戦後の都市化により鷺宮が変貌するにしたがい、当院も発展してきたが、現在なお旧鷺宮地区の地元民を中核として教化・活動をしている。