第32回 お江戸散策  大田区古社・古刹めぐり (解説版)

〔下丸子・矢口界隈〕
江戸時代安永年間(1772~1781)平賀源内が「福内外鬼」のペンネームで書いた浄瑠璃「神霊矢口渡し」は、南朝の忠臣 新田義貞の第二子 義興が、矢口の渡しで謀殺される様を描いた。これが人形芝居や、歌舞伎で上演され、評判となって、大当たりとなったことから、新田神社を中心とした下丸子、矢口一帯は一躍、新田義興ゆかりの地として江戸中で知られるようになった。

01〔光明寺〕
当山は浄土宗大金山宝幢院光明寺と云う。山門を入ると正面に本堂、その横に阿弥陀堂がある。寺伝では、天平年間に僧行基が開創し、824年に弘法大師空海が再興して、関東高野山と称して七堂伽藍を形成する大寺院であったと云う。その後、寛喜年間(1229~32)浄土宗に改宗し、最初の関東弘通(ぐづう)念仏道場と呼ばれた。弘通念仏とは仏の教えを広く知らしめることを云う。当山は、遺骸を弔う場所と死者の霊を供養する場所を持つ古い埋葬慣習「両墓制」が今も残る都内で唯一の寺院でもある。死者の霊を供養する場所には仏塔倶会堂があり堂内には彩色に彩られた阿弥陀如来像が安置されている。また、本堂には、承応3年(1654)に造立された木造四天王立像が安置されている。これらの像はもともと江戸城内紅葉山の家光霊廟にあったものだが、のちに芝の増上寺に移され、明治に入ってから当山に安置されたものである。境内の鐘楼の梵鐘は享保2年(1717)天明五郎右衛門光周ほか数百人が寄進したものである。鐘楼の傍らに盛土したように小高くなっている所は、荒塚と云い、矢口の渡しで新田義興を謀殺して、その後、義興の亡霊に祟られて狂死した武将・江戸遠江守の墓である。また、平成5年に行われた遺跡調査では、700年前に作られた板碑が200枚以上も発掘されました。板碑とは秩父産の青石(緑泥片岩)で、青石塔婆とも呼ばれているもので、一か所からこれほど多く発見されたのは光明寺だけである。この寺院にはもうひとつ歴史的視点がある。当山28世住職清閑上人が石田三成の子息であったと云う。そのため関ヶ原の合戦から、数十年経った頃から、石田三成の縁者が頼ってきて、当山の周辺に住みつくようになった。このことが明るみになると幕府から睨まれ、寺領を削られるようなこともあったが、2代将軍秀忠の長女千姫の葬儀をした芝・増上寺の住職玄誉上人が、当山第35世住職として赴任して来てからは、徳川家との関係も改善し、寺は盛えるようになったと云う。また当山には、5代将軍綱吉の母桂昌院の位牌も千姫ともども安置されている。そして、12代将軍家慶のときには、将軍家や御三家そして各大名家を巡行して、善導大師の供養法要を行う格式を与えられたと伝わる。その後大老に就任した井伊直弼は、開運出世弁財天の参拝に幾たびか通っていたと云う。

02.〔蓮光院〕
当山は真言宗智山派寿福山蓮光院円満寺と号し院号を公称にしている。天正2年(1574)真言宗僧源清)が中興した。江戸時代は玉川八十八ヶ寺第五十九番の札所として、古くから信仰され、村社・六所神社および天祖神社の別当寺として、下丸子村の行事一切を行っていた。当山の特筆は東京都指定有形文化財に指定されている武家屋敷門で、この門は、大名家 岡山池田藩の屋敷門と云われている。門の中央に両開きの門扉を構え、装飾は簡素ながらけやきの美しい木目(玉杢たまもく)の高級部材を用いている。壁は上部が漆喰壁、下部はなまこ壁とし、軒裏の垂木まで漆喰で塗り込めている。保存状態がよく貴重な遺構である。
 (漆喰壁:石灰に粘土や砂を混入した白土。)
 (まなこ壁:方形の平瓦を張り目地をかまぼこ型に盛上げた壁)

03〔十寄(とよせ)神社〕
十寄神社とは、南北朝時代、南朝方に就いた新田義貞の第二子、新田義興とともに延文3年(1358)矢口の渡しで討ち死にした13人の武者のうち、家臣10人を祀ったことからこの名が付いたという。古くは十騎明神とも呼ばれ、地元では「とよせさん」と呼ばれて親しまれてきた。社殿の裏手にある塚(古墳)が家臣たちを葬ったところと伝わっている。江戸時代には、新田神社に願い事をするひとは、先ず、当社に参拝すると願い事が叶うと云われてきた。


04〔新田神社〕
南北朝時代である。南朝方の武将・新田義貞の第二子新田義興は、父の意思を継いで南朝方の武将として、足利勢と戦っていた。義興は質実剛健、眉目秀麗という武将で関東における鎌倉公方・足利基氏勢力下の出城を攻略して、絶えず鎌倉方に脅威を与えていた。真面に当たっては勝てないと見た足利方はかって、新田義興側に味方していた竹沢右京亮を内応させ、義興を暗殺することを企てた。竹沢は義興に臣下の礼を以って近づき、信用させ、その歓心を買うために京都から上臈(高級女官)として少将局という美女を送り込んで、毒を盛らせようとした。しかし暗殺の命を受けた局は、魅力ある武将の義興を愛してしまうようになり、逆に義興の虜になってしまった。これに気付いた竹沢は裏切った少将局を殺して、多摩川に投げ込んでしまった(少将局を祀る女塚神社が西蒲田にある)。作戦が失敗した竹沢は、別の作戦を立てた。江戸遠江守らとともに、「いまの鎌倉殿は、東国政務が不安定で基盤が揺れている。この空きに鎌倉を攻めましょう」と進言した。この進言を聞き入れて、義興は、延文3年(1358)10月10日の明け方、16名の武者達と共に鎌倉に向けて進発した。多摩川を渡るために、矢口の渡しから舟に乗ったが、舟の船頭(頓兵衛)も言い含められていて、川の半ばで舟底の栓を抜いて、川に飛び込み逃げてしまった。舟は沈みだし、川岸に潜んでいた将兵に矢を射掛けられた。義興の家臣たちは、岸まで辿り着いたが、多勢に無勢、全員が斬殺されてしまった。義興は、「この恨みは七生(永久の意)までも祟り続ける」と怒り叫び、その場で切腹して果てた。この事件から矢口では不思議なことが起こりはじめた。閃光を放つ雷がたびたび起こり、義興を裏切った人々には様々な凶事が起こるようになった。そのため、村人たちが義興の亡霊を鎮めるために建立したのが新田神社である。境内には義興を埋葬した円墳がある。また、樹齢700年のケヤキの大木があり、このケヤキに触れると健康長寿、病気平穏、若返りのご利益があると云われている。

05〔頓兵衛地蔵尊〕
 新田義興を乗せた舟の舟底の栓を抜いて遁走した船頭は「頓(とん)兵衛(べい)」といい、後年その祟(たた)りで死んだと伝わる。その頓兵衛を憐れみ、村人が地蔵を建立したと云う。(平賀源内の浄瑠璃「神霊矢口渡し」の中では、頓兵衛が自らその行いを悔い地蔵を作ったとある)この地蔵は作られても、すぐ崩れ、何度作り直してもボロボロになるので「とろけ地蔵」と呼ばれた。現在、史跡になっており多摩川七福神の“布袋尊”が祀られている。
06〔徳持神社〕
 徳持神社の創建は、建長年間に、豊前の宇佐神宮よりご分霊を勧請したと伝えられている。荏原郡池上・徳持村民の守護神として崇敬され、別当寺が御旗山真勝寺(廃寺)であったことから、御旗山八幡宮とも称された。明治39年(1906)池上に競馬場が建設されることになり、そのため、現在地に遷座を余儀なくされ、社名も德持神社に改称した。その後の太平洋戦争で社殿が空襲で焼失したが昭和34年社殿は復興された。創建から約750年経ったが、今日に至っても池上徳持の地に鎮座し、人々の暮らしをお護りしている。
07〔池上・本門寺〕
当山は日蓮宗長栄山大国院本門寺といい、全国に日蓮宗200ケ寺を擁する大本山の巨刹である。山号の「長栄」は法華経の道場として長く栄えるようにの意、院号の「大国」は日蓮上人の阿闍梨(秘法を伝授された高僧の意)号である。本門寺の創建は、法華宗に帰依した土地の郷主池上宗仲が屋敷を寄進して寺院としたことに始まると云う。弘安5年(1282)年、日蓮上人が身延山を下り、常陸の隠(かくら)井湯に療養のために向かう途中、本行寺(本門寺大坊)に立ち寄った。しかし、ここで病状が重くなり10月13日辰の刻に入滅した。本門寺は、その後日蓮の弟子・日朗によって伽藍が整備され、中世には、朝廷から紫衣(しえ)の勅許を受け、将軍家や紀州徳川および諸大名の尊崇を受けて、関東一の巨刹と称された。戦災で、境内の五重塔、経蔵、宝塔、総門、多宝塔、を除く、大半の堂宇が焼失したため、仁王門や大堂などは戦後、復興されて建立された。毎年、日蓮上人の御命日に行われる「御会式(おえしき)」は、関東第一の仏教行事として、全国から多数の信徒が集い、賑わい、境内、参道はもとより池上通りまで参詣客が埋め尽くす盛大な行事として知られている。宗仲は法華経の文字数(69384字)にあやかり約7万坪を寄進したと伝わる。