第31回 お江戸散策  浄真寺・等々力渓谷界隈 (解説版)


1. 浄真寺
当山は正式には九品山唯在念仏院浄真寺という。当山の地は、もともとは世田谷吉良頼康の家臣大平出羽守が治める奥沢城があった所で、現在も土塁が現存している。この地に延宝6年(1678)、浄土宗の僧・珂碩上人が浄真寺を開山した。山門を入って進むと紫雲楼と呼ばれる大きな銅板葺きの山門が建っている。この楼上には、人々を極楽浄土に導く阿弥陀如来像、二十五菩薩像、風神、雷神像が安置されている。左手に建つ鐘楼は、世田谷深沢の名主・谷岡家から寄進されたものである。右手の本殿(龍護殿)には、釈迦如来像を中心に、善導大師像、法然上人像、珂碩(かせき)上人像が置かれている。正面の三仏堂は、中央が上品堂(じょうぼんどう)、右が中品堂(ちゅうぼんどう)、左が下品堂(げぼんどう)と称して、それぞれ堂内に、向かって右から、中生(ちゅうしょう)、上生(じょうしょう)、下生(げしょう)の三体合わせて九体の阿弥陀如来像が置かれている。それぞれの違いは生前に善行をしたかどうかで区分けされ、上品ほど良く、下品はよくないことを表している上品(じょうひん)、下品(げひん)という日本語の言葉はこれに因んでいる。また、阿弥陀像の螺髪が青いのは心穏やかな瞑想状態にあることを表している。仏像は、寄木造り、彫眼、漆箔で、高さは270~280cmある。
これが九品仏と呼ばれる所以である。境内には、榧と公孫樹の大木があり、晩秋には真紅に色付く楓が多くあり、都内でも屈指の紅葉スポットになっている。また、夏期には「おめんかぶり」の名で親しまれている阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会」の催事があり、信者が菩薩のお面をかぶって練り歩く情景を楽しむことができる。墓所には、東急電鉄創業者 五島慶太、2代目 五島昇やベニハナ創業者 ロッキー青木が眠っている。

*上品上生が最も良く、一切の殺生をしない、嘘は絶対につかない。下品下生は悪の限りをした極悪人。じかし、極悪人でも死を迎えた時は、極楽浄土に行かれるが、その時間は150億年掛かるとのこと。
* 彫眼:彫眼は仏像の目を直接彫ったもので、平安時代までの全てに  該当。玉眼は水晶を使った目のことで、鎌倉時代以降のほとんどの仏  像に用いられている。 
* 漆箔:仏像彫刻などで漆を塗った上に金箔を押したもの。また、漆に  染料を混ぜて薄く伸ばし書物の背文字などの装丁に用いている。

 


2. 宇佐神社
 永承6年(1052)朝廷の命で奥州平定に向かう源頼義はここ尾山に野営の陣を張った。その際、空に白雲が八つに分かれて棚引き、源氏の白幡のように見えた。頼義はこれを大いに喜び、勝利の暁にはこの地に八幡社を創建することを誓った。 9年に及ぶ戦を終え、康平5年(1063)奥州安倍氏を平定して凱旋した頼義は帰京の折に尾山の地を再び訪れ、八幡社を造営し勝利を報告したという。これが宇佐神社の創建と云われている。江戸時代の元禄12年(1699)には、社殿を再造された記録が残っている。また、本殿から社殿裏側の境内地は5世紀末~6世紀前半の首長墓と推定される「八幡塚古墳」であり、刀剣類や土器など多数の副葬品が出土している。つまり、当社は古墳の上に建てられた神社なのである。神社の東側には、「寮の坂」と呼ばれる古道があり、室町時代には多摩川上流から運ばれた武器・兵糧を奥沢城(現在の浄真寺)に運び入れる交通の要衝で、川崎泉沢寺と九品仏浄真寺の中間点にあたり人々の往来が多かったと云われている。

3. 傳乗寺(でんじょうじ)
傳乗寺は、正式には浄土宗松高山法生院傳乗寺という。境内に鎌倉・室町時代の石製卒塔婆の板碑があることから、古くから庵があったとされるが、寺院としては文禄年間(1592-6)の創建とされる。享和二年(1802)塞ノ神の火が移り伽藍は焼失。庫裡は同年、本堂は文化五年(1807)に再建されている。小規模ながら五重塔を有し、平成17年(2005)に落成している。



4. 東京都市大学
東京都市大学の前身校は、昭和4年(1929)に創立された。武蔵高等工科学校として、現在の東京都品川区大崎に創立された。その後,昭和14年(1939)に現在の本部所在地である東京都世田谷区玉堤に移転。1949年、学制改革により武蔵工業大学となる。1955年、創設者の要請により、大学は東京急行電鉄の創業者五島慶太の興した学校法人五島育英会に引き継がれた。2009年に武蔵工業大学に同学校法人の運営する東横学園女子短期大学を統合して東京都市大学と改称し、工学部、知識工学部、環境情報学部に加え、文系学部である都市生活学部、人間科学部を新たに開設し、5学部16学科となった。東京都市大学の建学精神は、前身校の創立以来「公正・自由・自治」を建学の精神として掲げている。




5. 善養寺
 多摩川のほとり、国分寺崖線沿いに位置する善養寺は正式には真言宗智山派影光山仏性院善養密寺といい、京都東山七条にある智積院が総本山で、智積院の末寺である。開山は祐栄阿闍(あじゃり)で本尊は大日如来坐像。慶安五年(1652年)に深沢(駒沢公園の南)から移転したと「新編武蔵風土寄稿」に記されている。玉川八十八箇所霊場32番の札所で毎月1日には本尊大日如来のご縁日として大護摩供養が行われている。丸子川に架かる朱色の大日橋を渡り、野毛で一番古い建造物の山門を潜ると、火除けの神獣、海駝(かいだ)の坐像に出迎えられる。この坐像は世界中でも数少ない貴重なものである。本堂は唐招提寺金堂を模したもので目を引く。鐘楼と梵鐘は善養寺400年記念として平成10年に完成した。本堂の前の榧の大木は区(く)の天然記念物に指定されている。春には鮮やかに咲くシダレサクラが境内を明るくしてくれる。その他、儒者風の石像、巨大な亀王像、守備隊長の像、多摩川の精「たま坊」、象の頭を持ったヒンズー教の神「ガネーシャ」、南インドの獅子吼(ほえる獅子)そして架空の獣「海駝」、などの石像が置かれ、さしずめ石像のテーマパークのようなにぎやかさで、参詣者を楽しませてくれる。




6. 六所神社
 府中六所神社のお宮だったことから六所明神とし、当時の上野毛と下野毛(現在の野毛)の鎮守として祀ったというのが、この六所神社の濫觴と云われている。府中六所神社というのは現在の大國魂神社のことで、大國魂神社から勧請したものかは定かではないようである。明治31年には村内にあった幾つかの神社を合祀し、下野毛の村社として現在の地に遷宮した。現在の境内にある赤い社殿などは昭和44年の秋に氏子崇敬者有志の方々の努力によって新しく造られたもので、境内には木々が多く、落ち着いた感じの雰囲気となっている。また境内には百景の文書にある水神が祀られている。これは川の恵みに感謝しつつ、水害を防ぐため、また川の安全と豊漁を願っての信仰によるものである。この水神には一つエピソードがあって、水神様の石碑が多摩川沿いに祀られていたのだが、明治43年の大洪水で流出してしまった。その後、大正時代になってから多摩川では建築用の砂利採掘が盛んに行われていた。そんなある日、砂利の採掘中にその水神の石碑が発見されて、この六所神社の境内に丁重に安置されたという。かっては、夏の大祭に、神輿を多摩川の中に担ぎ入れ、水神祭りを繰りひろげていたと云うが今日は行われていない。



7. 等々力渓谷
 東京23区内で唯一の渓谷である等々力渓谷は、東京都の名勝に指定されている自然豊かなスポットである。東急大井町線 等々力駅から5分ほど歩くと、ゴルフ橋のたもとに「等々力渓谷公園入口」の看板と階段が見えてくる。そこを降りて谷沢川に沿って1kmほど続く遊歩道に降りられる。2~3月は梅、4月には桜が見ごろを迎え、5月になると新緑が爽(さわ)やかな季節となり、秋はイロハモミジが紅く色づき、四季折々の多彩な表情を楽しむことができる人気の行楽地である。等々力渓谷内には自然だけではなく、日本庭園や横穴式古墳、不動の滝、等々力不動尊、武蔵野礫層(れきそう)などの地層といった見所が沢山ある。駅からのアクセスが良く、気軽に都内の自然を楽しめるスポットなのだ。渓谷内にある「満願寺 等々力不動尊」は、真言宗智山派の名刹・満願寺の別院である。瀧轟山明王院と号し、その由来は今から1.000年近く前の平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗の始祖・興教大師が大和国に奉祀されている不動明王の霊夢により創建したと伝えられる。なお、その不動明王は山岳修験道の開祖である「役(えん)の行者」の作だと言われ、本堂の後ろにある奥之院に奉られている。また山門は江戸時代のもので、満願寺から移築されたものである。
* 役の行者:役小角(おづぬ)とも呼ばれた奈良時代の実在の呪術者で修験道の開祖とされている。神仏調和を唱え、法力で行く手を塞ぐ巨岩を打ち砕いたとか、藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説がある人物。坪内逍遙は、戯曲『役の行者』の題で彼を描いている。



8.野毛大塚古墳
 野毛大塚古墳は、国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群のなかで最大規模の古墳です。平成元~4年に行われた発掘調査によって、古墳の形は帆立貝形古墳(全長82m、後円部直径67m、高さ11m)で、 同種の古墳としては最大級の規模を誇っている。また、周囲には馬蹄形の濠がめぐり、これを含めた全長は104メートルになる。また、古墳の表面は葺石で覆われ、都内最古の埴輪列が立てられている。後円部の頂上には遺体を埋葬する施設である主体部が50年ほどの間に4カ所設けられている。中央の第1主体部からは関東地方最古の鉄製の甲冑や石製品など、多種多量の副葬品が出土している。これらの副葬品から、5世紀初めころ(約1,600年前)に造られた古墳と考えられ、畿内王権と深く結びついた南武蔵地域の大首長墓と云われている。当時の政治・社会の展開を考える上で重要である。 
* 葺石:古墳の墳丘の表面に 敷きつめた石で、表飾のためと封土の 流失を防ぐためのもの。




9. 満願寺
 真言宗 智山派致航山感応院満願寺は1470年に6代目世田谷吉良成高によって創建された真言宗の名刹で、定栄(じょうえい)和尚が中興開山したと伝わる。当山は深沢の兎々呂(とどろ)城内片隅に在ったのを、第二世栄心和尚の時代に、この地に移転させたという。この移転した所に兎々呂城の出丸があったので「トドロキ満願寺」とも言われていた。ここから等々力(とどろき)と言う地名になったとも言われている。ご本尊は大日如来で、別院として等々力不動尊がある。江戸時代になると、三代将軍家光により寺領13石を与えられ御朱印寺になった。そして、寺には日本三体地蔵の一つで華麗な「一言地蔵」と「延命ぽっくり地蔵」がある。また墓域には、江戸時代の儒学者 細井広沢の墓がある。
細井広沢は、万治元年(1658)遠江国掛川において細井玄佐知治(松平信之の家臣)の次男として生まれた。11歳の時に父とともに江戸へ入り、朱子学と書道を深く学んだ。ほかにも兵学・歌道・天文・算数などあらゆる知識に精通し、博学をもって元禄前期に柳沢吉保に200石で召抱えられた。また剣術を堀内正春に学び、この堀内道場で師範代の赤穂藩士の堀部安兵衛武庸と親しくなった。赤穂事件が起きてからは堀部安兵衛はじめ赤穂浪士に協力し、「討し入り口述書」の添削や「堀部安兵衛日記」の編纂も引き受けている。そして吉良邸討ち入り計画にも、かなり深い協力をしており、堀部からの信頼の厚さが伺える。しかし、この事件とは関係ない別件で元禄15年(1702)に柳沢家を放逐された。それは広沢が幕府側用人松平輝貞(高崎藩主)と揉め事を抱えていた友人の弁護のために代わりに抗議したため、輝貞から不興を買い、「広沢を放逐せよ」と松平輝貞が執拗に柳沢家に圧力をかけるようになり、柳沢吉保がこの圧力に屈したというのが放逐の原因である。しかし、吉保は広沢の学識と正義感を惜しんで、浪人後も広沢に毎年50両を送ってその後も関係も持ち続けたといわれる。細井広沢は、蕉林庵玉川と号して武芸・名筆家として生計を得て、晩年を玉川で過ごした。山門の額は広沢の筆である。




10. 玉川神社
 創建の年代は不詳だが、文亀年間(1501~1504年)に世田谷城主・吉良頼康が紀州熊野より勧請したと伝えられ、元は熊野社と称した。等々力村の鎮守であり、別当寺は今も隣接する真言宗智山派の寺院・致航山満願寺(等々力3-15-1)であった。1872(明治5)年に村社に列せられ、1907(明治40)年には村内に鎮座していた字上原神明社・字小山根御嶽社・諏訪社(現・東玉川神社の前身)を合祀し、地名に因み社号を玉川神社と改称した。現本殿は1929(昭和4)年、拝殿と幣殿は1940(昭和15)年に、それぞれ造営された。1964(昭和39)年、等々力1-25鎮座の八幡社を合祀している。
 【宇佐八幡宮】
 全国約11万の神社のうち、八幡社は最も多く、約40,600社ある。宇佐神宮は大分県に所在し、その約4万八幡社の総本宮である。御祭神である八幡大神は応神天皇のご神霊で、欽明天皇の時代(571)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれる。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた帝で、神亀2年(725)、現在の地に御殿を造立し、八幡神を祀った。これが宇佐神宮の創建である。八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称え奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられている。その威光は、朝廷への神託を下す尊厳を与えられ、道鏡事件に置いて、その威光を泉下し、その長い信仰の歴史を宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができるが、千年、斧を入れない深緑の杜に映える美しい本殿は国宝に指定されており、総本宮にふさわしい威容を誇っている。