第30回 お江戸散策  杉並の古社・古刹めぐり (解説版)


1. 大宮八幡宮
 大宮八幡宮は「多摩の大宮」と呼ばれる武蔵国屈指の大社で、祭神は仲哀天皇(14代天皇で父が日本武尊命)、神宮皇后(仲哀天皇の后で、応神天皇の母)、応神天皇(15代天皇で仲哀天皇の嫡子。全国2万社の及ぶ八幡社の祭神として知られる)。大宮八幡宮の社殿によると、康平6年(1063)源頼義が前九年の役の凱旋の折り、京都石清水八幡宮の神霊を勧請して建てたと伝わり、紀州熊野・那須神社の米良文書には貞治元年(1362)に願文を出した記録が残されていることから14世紀半ばには存在していた古社と云える。当時から近郷の武将から信仰を集めたが、度重なる戦乱、火災によって古文書が焼失した。遺されている物の中になかには、豊臣秀吉の禁制札、由比正雪が慶安の変を起す直前に奉納した絵馬などがある。境内は13,000坪あり、大鳥居から社殿まで約300mの石畳参道の両側には、徳川3代将軍家光の寄進と伝わる躑躅が植えられている。本殿前の大公孫樹は都の天然記念物に指定されている。毎年9月に行われる「秋の大祭」には、近郷6町から神輿が繰り出され、参道の両側には出店が軒をならべ盛大に繰り広げられる。






2. 泉谷山大圓寺(せんこくさん だいえんじ)
 大圓寺は曹洞宗の寺院。山号は泉谷山。本尊は釈迦如来。薩摩藩島津家の江戸での菩提所でもある。寺伝によれば、慶長8年(1603)江戸赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立された。開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)といわれている。寛永18年(1641)正月、江戸の大火によって諸堂を類焼した。跡地は御用地として召し上げられ、その代替地として伊皿子に寺地を拝領して移転した。延宝元年(1673)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久が江戸で死去した際、当山で葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が設けられている。その後、塔頭も徐々に建立され、それぞれに大名、旗本の諸家や大店商人衆が檀徒となり、寺は隆盛した。 明治41年、寺院の発展を計るため、現在地に移転し、今日に至っている。 境内には、石像の仁王尊や寛永2年(1625)芝浦の海中から出現したといわれる潮見地蔵尊石像そして島津家の宝篋印塔・六地蔵尊がある。墓地には島津家の墓所があったが、明治に入ってから神道に宗旨替えしたため当山には、藩主の墓はない。藩士たちの墓はあり、西郷隆盛の密命を受け、薩摩屋敷を根拠として約500名の浪人を集めて江戸市内を混乱に陥れ、放火や強盗など、幕府に挑発行為を続けた益満休之助、初代文部大臣森有礼の実兄で、平和外交を主張し、暗に征韓論を批判し、新政府高官たちの汚職・腐敗に抗議して割腹死した横山安武など幕末に活躍した薩摩藩士の墓がある。その横山の抗議十ヵ条の一部を掲げると
1、旧幕府の悪弊が新政府にも移り 、昨日非としていたことを今日では是としている。
1、官吏らその高下を問わず 、から威張りして外見を飾り 、内心は名利の虜になっている。
一 、政府が心術正しき者を尊ばず 、愛憎によって賞罰し、才を尊ぶがために 、廉恥の気風は上下ともに地を這っている。
1、官吏が上下ともに利を求め、高官たちの我儘で勝手な振る舞いは目にあまる。 と書かれている。
この抗議書の内容は西郷隆盛にも意を通じるものがあり、優れた人材を失ったことを深く悲しんで、のちに、追悼文を書いている。

3. 東運寺(とううんじ)(釜寺)
 東運寺は浄土真宗の寺院で、山号は念仏山。天正元年(1573)備前の僧・一安上人が安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵」をこの地で奉じて念仏堂を建てたことが開創と伝わる。厨子王が山椒大夫に釜ゆでにされ掛かったのを地蔵尊に助けられたとの伝説に因んで本堂の屋根に釜を置いたことから、この寺は通称「釜寺」と呼ばれている。大正11年(1922)下谷入谷町にあった東雲寺と合併し現在の寺号になった。山門は奥州一関藩主田村右京太夫の屋敷の脇門で戦後三井家から寄進されたものである。東運寺東側の方南町2丁目公園は「釜寺東遺跡」といい縄文時代の遺跡あとで住居跡や石棒や土師器、玉飾などが出土した所である。


4. 立正佼成会
 立正佼成会は同会のホームページによると、
「法華三部経を所依の経典とする在家仏教教団で、家庭や職場、地域社会の中で釈尊の教えを生かし、平和な世界を築いていきたいと願う人々の集まりである。会員は仏教徒として布教伝道に励みながら、宗教界をはじめ各界の人々と手をたずさえ、国内外でさまざまな平和活動に取り組んでいる」とある。
 創立は昭和13年(1938)年3月5日、本尊 は久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊経典は法華三部経(【無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経】)で、すべての人が人間的に向上し、最終的には仏になることができると説く.
 創立者 開祖:庭野日敬 脇祖(わきそ):長沼妙佼 会長:庭野日鑛会員世帯数 約115万世帯(平成29年1月1日現在)教会・拠点 国内238教会/海外20カ国・地域、65拠点日蓮宗系の創価学会とは反目する関係といわれ、その創価学会は日蓮正宗とは相入れない関係という。



5. 堀之内 妙法寺 (ほりのうち みょうほうじ)
 当山は、日蓮宗日円山妙法寺といい、江戸時代から「堀之内の御祖師さま」として親しまれ、参詣客で大いに賑わった。沿道には参詣客相手の茶屋などが繁盛し、「祖師参り」を題材にした文芸も多く残されており、落語の「堀之内」もその中の一つである。本堂は明和3年(1806)の明和の大火で焼失したのち再建されたものである。有形文化財が多数あり入母屋造りの「祖師堂」、将軍の御成を前提に作られた書院造りの「御成間」、阿形像と吽形像の金剛力士像を配置した「仁王門」などがよく知られている。その他、名陶芸家 尾形乾山作の「水差し」、寛永の三筆と謳われた本阿弥光悦直筆の和歌を書いた「掛け軸」などがある。明治41年に完成した「鉄門」は英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計した和様折衷の意匠を基調としたもので重要文化財に指定されている。門左右の漢詩は第74世吉川日鑑法皇の筆跡で、その意味は「花は浄界に飛んで 香りは雨となる。金を祇園に布いて福は田に有り」である。境内には当地界隈に住んでいた作家・有吉佐和子を偲んで建てられた碑がある。



6. 宗延寺(そうえんじ)
 宗延寺は江戸時代中期に身延山久遠寺の末寺として上野下谷に建立され、善立寺 (足立区)、瑞輪寺(谷中)と並ぶ江戸三大触頭の一つに数えられて、塔頭五坊を擁するほど隆盛していた寺院である。触頭(ふれがしら)とは下位の寺院からの訴願を奉行に伝える役職のことを云う。明治初めに伽藍を焼失したが、大正8年(1919)区画整理にともない現在地に移転、そのとき客殿に今上天皇(当時)の御産殿を移築した。境内には江戸城殿中で大老堀田正俊を暗殺した若年寄 稲葉正休の墓がある。稲葉正休と堀田正俊は親戚同士であった関係から、正休が正俊を殺害に及んだ原因は諸説あり、今日でも真相は解明されていない。一説には「5代将軍徳川綱吉の内命を受け権勢におごる大老 正俊に辞職を勧めたが受け入れられなかったため」また一説には,「その前年に正休が担当した摂津,河内両国の諸河川の治水工事の見積もり金額に食い違いがあり、差額を正休が着服して、正俊に厳しく追及を受けたことを恨んで犯行に及んだ」との説がある。事件の重みからすれば、時の大老職が殿中で暗殺されると云う事件であるから、浅野匠の頭が吉良上野介に刃傷に及んだ赤穂事件よりはるかに大事件と云えるのであるが、事件は被害者の堀田正俊ばかりでなく、加害者の稲葉正休も、事件現場で傍にいた老中たちに斬り殺されという結末もあり、真相不明のミステリーとなっていて、後世も忘れられたように巷で語られることもなくなった。



7. 修行寺(しゅぎょうじ)
 当山は日蓮宗如説山修行寺という。寛永3年(1626)日城上人によって麹町に開創された。その後、赤坂一ツ木へ移転したが、明暦3年(1657)の明暦の大火(振袖火事)で被災し、市ヶ谷谷町へ移転した。市ヶ谷では出雲広瀬藩松平家、尾張藩御附家老で犬山城主でもある成瀬家が壇越となり、多くの寄進を受け大切にされた。文化9年(1812)成瀬正典の生前墓が建立され、その一族の墓が多く残されている。御附家老とは、江戸時代初期、幕府が親藩に対し、施政を監督・指導するため遣(つか)わした家老を指し、成瀬正成は家康の直参であったが、尾張藩が出来た当初、藩主徳川義直の補佐役として大名格身分の家老として務め、初代犬山城城主になった。大坂冬の陣のあとの和睦後、大阪城の濠を一挙に埋めたのは正成の発案であったと云う。功績を上げた成瀬家は以後、幕末・明治そして今日に至っても犬山城の主(あるじ)として代々続いている。余談ながら、新宿駅の大部分の敷地は、明治に入ったときまで成瀬家の下屋敷があったところである。また、紀州藩には安藤家が遣わされ、新宮城城主になっている。




8. 真盛寺(しんせいじ)
 当山は、室町時代後期に真盛上人が興した天台宗真盛派の東京別院である。本山は近江坂本にある西教寺。この西教寺には明智光秀の墓がある。真盛寺は別名三井寺ともいい、三井家の菩提寺になっている。都心の寺院としては、境内は広く、客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵家から譲り受けたものである。墓所には、三井越後屋代々当主一族の墓や三井中興の祖として幕末から明治初期にかけて、三井の発展に多大な貢献をして、三井中興の祖と呼ばれた三野村利左エ門の墓がある。
 三野村利左エ門は文政4年(1821)、庄内藩士の家に生まれ、28歳のとき江戸へ出て、縁を得て駿河台にある幕臣小栗家の下男となり、小栗家の知遇を得ました。のちに菜種油商紀ノ国屋の美野川利八の養子となり、利八の名を継ぐ。商いで地道に資金を蓄え、安政2年(1855)には、両替商となりました。万延元年(1860)、旧知の勘定奉行小栗上野介忠順(ただまさ)から小判吹替の情報を事前に得て、天保小判を買占め、巨利を得た。この事が利八の名が世間に知られるきっかけとなった。この利八に注目していたのが三井組の大番頭斎藤専造で、当時大坂、江戸の豪商たちは、幕府から多額の御用金用達を命じられ、三井には100万両の通達を受けていた。斉藤は利八が勘定奉行小栗家に通じていることを知り、利八を三井組に中途入社させ、「通勤支配」(取締役)に任命して、幕府との折衝役に当らせたのである。利八はこの期待に応え、御用金を半額の50万両に減免させることに成功させたのである。本来であれば、これでお役御免となり解雇であるが、利八は三井内部の旧態を見抜き、新時代に対処するような提案を検索して、三井家当主高富に見込まれて、より三井の中で重責を担っていくのである。明治に入ってから、三野村利左エ門と名を改めた。三野村は、新政府の内務大臣大久保利通の要請に応え、江戸での金札の流通に引受け大いなる信用を得る。また、外務大臣井上馨との交流を深め、三井銀行の設立にも成功させて、その頭取になった。そして三菱の岩崎弥太郎に対抗する政商として勇躍し、政府の官営事業を多く取得して莫大な富を三井にもたらしたのである。三井中興の祖といわれるのはこの所以からである。余談ながら、小栗上野介が新政府軍によって斬首された時、その妻子は命からがら会津に落ち延びたが、貧困のどん底にあった小栗の妻子を救い出し、その妻子のために深川に家を用意し、手厚く保護して、生活面を支えたのは三野村利左エ門でした。利左エ門のこのような恩義に報いる行動が、三井家の中でも、評価され、信頼を受けて、三井の舵取りを担う重責を任されて、三井の発展に、多大な貢献をしてきたのでした。




9. 蚕糸の森公園 (さんしのもりこうえん)
 明治初期、新政府が推進する重要政策に富国強兵と殖産興業があり、その一つに製糸業があった。製糸の基になる養蚕の研究を促進するために、明治44年、青梅街道に隣接するこの場所に農林省蚕糸試験場が設立された。この試験場は蚕、桑、絹糸の実験研究所として、蚕の種紙(蚕卵紙)の製造や品種の改良、新品種の発見また病原菌の発見とその防除法、そして桑園の管理、製糸業の開発など、数多くの業績を残して、日本の養蚕、製糸業に大いに貢献した。昭和54年、試験場は筑波学園都市に移転して、その跡地に蚕糸の森公園と区立杉並第十小学校ができた。公園には試験場時代の面影を残すレンガ造りのモダンな門や桑畑も残されて、緑多い公園として区民に親しまれている。



10. 宝仙寺 (ほうせんじ)
 寛治(1087~1094)年間、源義家によって現在の阿佐ヶ谷辺りに開かれ、室町時代(1429年)に現在の位置に移転した。本尊は義家が後三年の役の際に護持していた秘仏不動明王像と伝えられる。また、宝仙寺は同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺となっている。江戸時代には優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け、当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加する待遇を受け大いに発展した。また将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用されるほどの寺格を得た。境内には阿・吽一対の仁王像が納められた「仁王門(山門)」、鎌倉期の不動明王を中心に五大明王像が安置されている「本堂」、寺務室と仏事法要等に使用されている「大書院」、弘法大師の尊像が安置されている「御影堂」、飛鳥様式の純木造建築の「三重塔」、寺号の由来となった宝珠を祀った祠の「白玉稲荷」など見どころが多い、また、当山には、明治28年から昭和の初期まで中野町役場が置かれていたが、その証を示す碑が建てられている。墓所には、代々中野村の名主で、当山の檀家総代をされていた堀江家の墓がある。



11. 朝日ケ丘公園
 宝仙寺の南にある、この小さな公園は、享保13年(1728)将軍吉宗の時代、日本に初めてベトナムからやって来た象の小屋が建てられ、飼育されていたところである。長崎に着いた象は江戸に行く途次、京で時の中御門天皇に拝謁するため従四位の官位を与えられたと云う。江戸城で将軍吉宗に謁見し、幕府から将軍家の別邸浜御殿で飼育されることになった。しかし、その象の食べる量は半端ではなく、あまりに費用が掛かることから、中野村在住の中野村在住の源助に払い下げられた。象はこの地で15年間飼育されて25歳で病死した。この間、もの珍しさから、現在のパンダブームのように、江戸庶民の人気を博し、宝仙寺には、象の見物がてら多くの参詣者がわんさとやって来たと云う。象の死後、宝仙寺は象の牙を寺宝として大切に扱ってきたが、戦災で寺が焼けたとき焼失した。