第29回 お江戸散策 中野・東中野界隈 (解説版)
 〔中野の変遷〕
 江戸時代の中野区界隈は青梅街道の賑わいから外れた寒村でした。3代将軍家光は鷹狩りや遊覧目的で、しばしばこの辺りに出掛けた。5代将軍綱吉は「生類憐みの令」を発令して、16万坪に及ぶ犬小屋作った。中野区役所周辺を囲(かこい)町地区と呼ぶのは、その名残である。駅の南部は8代吉宗が鷹狩りの御立場と桃園を作り、のちに庶民に開放され、花見の名所になり、文人墨客が来遊するようになった。幕末になると道路も整備され、新井薬師への参詣客など、人の往来が増加してきた。明治22年(1889)には甲武鉄道が開通し、東中野に至る地域は宅地化が進み、商家も増えて、街並みや辺り一面の景観は一変した。そうして、次第に青梅街道沿いの繁栄や活況を凌(しの)ぐようになって行った。大正12年(1923)の関東大震災は東京の中心部や下町に壊滅的な打撃を与え、こぞって中野から武蔵野地域へ住民や寺社が移転して、加速的に人口が増加して行った。そして都庁が新宿に移転して、東京副都心になってからは、中野地区は大きく変貌し今日に至る都市に発展した。
 1. 中野犬囲み跡
 江戸元禄の時代、現在の中野駅から区役所、警察学校その周辺一帯に、数万匹を越える犬を収容する犬小屋があった。その面積は16万坪におよび「犬御園」と呼ばれていた。5代将軍徳川綱吉による「生類憐みの令」により作られたものである。「生類憐みの令」は綱吉の子、徳松が5歳で病死し、その後、子宝に恵まれなかったことを、生母桂昌院が帰依する僧・隆光の教えを受け、「殺生を慎め」という訓令的お触れだった。それが「前世多くの生類を殺した罪」「天下の殺生を禁じ、綱吉が戌年生まれだから犬を大切にすれば幸運が開ける」という説に転化していってしまった。このことから、犬を虐待したばかりに死刑や流罪になることが生じ、人々は犬を飼うことを嫌がった。その結果、江戸中に野犬が増大し庶民を苦しめる事態を引き起こした。幕府は元禄7年(1694)に東大久保、中野に犬小屋を設置し、丸亀藩主や津山藩主に普請奉行を任じて、犬の飼育・管理に当らせた。犬の飼育・管理費は、莫大な費用が掛り、その費用を幕府直轄地の農民に負担させた。この悪法ともいえる法令は綱吉の存命中続き、遺言でも存続を言い渡したが、綱吉が死去して、家綱が6代将軍に就任なるや否や廃止された。
 2. 中野刑務所跡(旧豊多摩刑務所)
 法務省矯正研修所は旧中野(豊多摩)刑務所跡である。明治43年(1910)3月から昭和53年3月まで首都圏の矯正施設として運営された。明治8年(1875)に小伝馬町から市ヶ谷に移され豊多摩監獄としてスタートした。戦後、昭和32年まで米軍の拘禁所として接収されている。同刑務所は矯正所としての役割と同時に、戦前の治安維持法による政治犯や思想犯を多く収容した暗部の歴史を持っている。収容された政治犯には大杉栄、亀井勝一郎、小林多喜二、川上肇等の文化人がいた。また、この建物は近代建築上の優れた遺産で、煉瓦造りの獄舎は大正4年(1915)の春に完成したもので、設計者は天才建築家と呼ばれた後藤慶二である。後藤は、当時の建築設計の巨匠辰野金吾や片山東熊の後に続く建築家と期待されたが、豊多摩監獄竣工の4年後、スペイン風のため36歳の若さで死去した。


 3. 北野神社
 北野神社は天満宮として天正・天和(十六世紀)の頃には新井の里の鎮守であったと伝承されている。豊かな水に恵まれた新井の村は、妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願しました。天神として祀られた菅原道真公は世に優れた学者であり右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め、今日では、学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなっている。境内には天神様のお使いの「撫で牛」が鎮座して、自らの体の悪いところ、良くなりたいところを撫でるよう促している。また「力石」がある。これは吉凶や願い事の成就を占うものに使われたが、江戸から明治に掛けては力試しの娯楽や鍛錬のために使われた。

4.. 新井薬師
 新井薬師は松高山梅照院薬王寺といい、天正4年(1586年)、僧・行春により創建された「子育薬師」「治眼薬師」として僧・行春によって開基された。中野区最大の寺院であり、西武新宿線の駅名にもなるなど、都内でも有数の著名寺院である。駅前から山門にかけては商店街の続く門前町となり、地域住民からも新井薬師として古来親しまれている。新井の名は当地で新たに井戸を掘ったことに由来するもので、高尾山薬王院、日向薬師(伊勢原)、峰の薬師(相模原)とともに武相四大薬師に数えられる。また当寺の井戸水(白龍権現水)は、一般に開放されており、飲用水として多くの人がここの水を汲みに来る。天正4年(1586年)、僧・行春により創建された。本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像である。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるとされ、秘仏であるが、12年に一度、寅年のみに開帳される。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところ、たちまち回復したとされることから、特に眼病治癒の利益(りやく)に関して有名になった。その他子育てなどにも利益があるとされている。毎月8日は縁日とされ、大変な賑わいをみせる。足立区にある西新井大師は同じ真言宗豊山派の寺院。


5. たきびの歌発祥の地
 童謡「かきねのかきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき」。木枯らし吹く中、子どもたちが焚火に手をかざす情景が浮かぶこの歌は、今日でもけやきの大木が生い茂り広い庭を囲った鈴木家の屋敷の風景から生まれた。作詞者の巽聖歌(本名・野村七蔵 1905~73)は岩手県出身で北原白秋に師事した詩人ですぐれた児童詩を発表した。聖歌は近所の萬昌院近くに借家住まいをしていたとき、付近を散歩して詩のイメージを膨らませた。詩の出来た昭和5、6年頃の上高田周辺は大根、瓜の畑が散在し、茅葺の農家、けやき林の残る武蔵野の景観が見られた。この歌から当時の情景を想像するも楽し。
作曲は国立・公立の教師であり、童謡の作曲家・渡辺茂。





































6.万昌院功運寺 (ばんしょういんこううんじ)
 万昌院と功運寺はもともと別の寺で、両山とも曹洞宗の寺院でした。万昌院は今川義元の三男で僧籍に入った長(ちょう)得(とく)が半蔵門の近くに開基し、幾度かの移転をしたのち、大正3年(1914)に中野に移転したが、その3年後に焼失した。功運寺は慶長3年(1598)幕府老中永井尚政が父尚勝のために開基した寺である。大正11年当地に移転してきて、昭和23年(1948)万昌院と合併し、萬昌院功運寺となった。
墓域には著名な人が眠っている

6.1 吉良上野介義央(よしなか)*よしひさともいう
 御存じ赤穂事件の敵役である。この事件はあまりにも有名で、高家旗本(高家肝煎)の吉良上野介義央が赤穂藩主浅野長矩に「いじめ」をしたことで、浅野がその“遺恨”を江戸城内松の廊下で吉良を斬り付けたのが発端とされている。しかし、近年の研究では、吉良が生前、自領での農民から慕われた善政から、“遺恨”は、のちの歌舞伎や芝居によって勧善懲悪の概念を脚色されて作られたもので、義央の名誉回復を論評する見解が増えてきている。吉良上野介の墓には、「元禄十五年壬午(じんご)十二月十五日」と刻まれており赤穂浪士が討ち入りした日を裏付ける銘で、興味深い。また、吉良の墓の前には当日、不意に襲われて憤死した上杉家から派遣されてきた小林平八郎、清水一学らの顕彰碑があり、赤穂浪士には死者がなく、吉良家側には多くの死者がいることは、今日では赤穂藩元家老大石内蔵助たちが徒党を組んで、寝込みを襲った集団殺人を行った事件とみる見解も出てきて吉良に同情する声が上がってきている。
 〔メモ〕
吉良家は禄高4200石の高家旗本である。高家とは朝廷との折衝や典礼を執り行う家柄(今川家、喜連川家も同様)で大名ではないが位階は従四位上で 薩摩藩主島津家・仙台藩主伊達家と同格の格式で浅野匠ノ頭は従五位下で、吉良よりはるかに下位の序列なのである。すなわち、吉良の先祖は「公方絶えなば吉良が継ぎ、吉良絶えなば今川が継ぐ」と謳われ、足利一門の流れをくむ名門の家柄なのである。そのような家柄の上野介に斬りつけたことから、浅野は即日切腹、吉良には御咎めなしの裁定が下されたわけである。ただ、武家諸法度では喧嘩両成敗が定められていることから、裁定の片手落ちを主張して、浅野家家老大石内蔵助は主君匠ノ頭の刃傷(6.5参照)を仇討という大義名分を掲げて事を起し、願望成就を果たしたのである。当時の世相は、商人が台頭してきて、士農工商の身分階級にもほころびが生じて来ていた。武士がこの事件を起したことで、幕府はこの事件を「忠君精神」の締め直しに利用したともいえる。また、この風潮は後世、芝居・歌舞伎に取り上げられ一層加速されたと云える。

6.2 歌川豊国(うたがわとよくに)
 江戸時代の浮世絵師。本名、倉橋熊吉と言い、幼少期に歌川派創始者歌川豊春に弟子入りし学んだ。20代後半に、役者絵や美人画で絶大な人気を博して独立した。数多くの門下生(国安、国丸、国直、国芳)を育て、幕末の歌川派浮世絵を興隆させた。今日でも相撲、芸能、実業界にあるように弟子がやがて師匠と呼ばれる立場になることがある。それは職人の世界でも同様で、師匠は管理職であり、部下を育てる能力を問われる。現役の時には大した実績がなくても、指導者になると才能を発揮して大変な成績を上げる人がいる。初代豊国はまさにそれである。「東海道五十三次」「名所江戸風景」で知られる安藤広重は歌川豊国門下に入りたかったが、弟子が満員で入れなかったと言われている。明治36年生まれ96才の浮世絵師歌川豊国6代目(幼名・国春)が、近畿大学法学部に入学して話題になったことがあった。今日においても歌川浮世絵師の流れがまだ続いているということである。

6.3 水野十郎左衛門成之(みずのじゅうろうざえもんなりゆき)
 旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる水野十郎左衛門が生きた時代は、家光の治世から、4代将軍家綱の頃で、武断政治の荒々しい気風がまだ残されている時代であった。旗本・水野成貞の長男として生まれた家柄で将軍に拝謁したこともあった。そんな成之であるが、普段の素行は悪く、同じ旗本仲間と旗本奴白柄組を組織し江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。このことから、江戸の任侠町奴の大物・幡随院長兵衛と対立するようになった。そのような中、明暦3年(1657)7月、成之は長兵衛と和解と見せかけて屋敷に招き殺害した。成之はこの件に関しては、お咎めなしであったが、業務怠慢や不敬不遜の素行は治らず切腹を命じられ果てた。享年35。

6.4 林 芙美子 (明治36年(1903)12月31日~昭和26年(1951)6月28日)
 福岡県下関生まれの小説家。 林芙美子は物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に多く、「晩菊」や「浮雲」の名作がある。中でも「放浪記」は、作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説であるが、名女優 森光子の好演によって、舞台化、映画化、テレビドラマ化され作家・林芙美子の名も一躍有名になった。

6.5 その他
 萬昌院を開基した今川長得の墓、功運寺を開いた永井尚政の一族の墓がある。永井尚政の孫尚長は、増上寺で行われていた将軍家の法要中に内藤忠勝に斬られ死んだ。加害者の内藤は奇しくも浅野長矩の叔父に当たる。萬昌院功運寺には、浅野長矩とその叔父内藤忠勝に刃傷された吉良上野介と永井尚長が眠っていることになる。


7. 宝泉寺 (ほうせんじ)
 曹洞宗 宝泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所がある。高さ約三メートルの五輪塔の中央には剱峯源光大居士、その右に寛永十五戊寅歳(1638)、左に正月朔日と刻まれている。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石史料としても貴重なものである。板倉重昌は、京都所司代板倉重勝の第三子で、のち三河の深溝城主となった。若くして徳川家康の近習となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」・「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって大坂冬の陣が起こり、豊臣氏の滅亡へと進んで行った。寛永14年(1637)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励し、キリシタン信徒の鎮定に努めたが、強い抵抗にあって果せず、手をこまねいていた。幕府は老中・松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援を決定した。重昌は責任を痛感するとともに、屈辱感と功を奪われることに焦慮を覚え、翌年元旦「原城」総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い4000人とも伝わる大損害を出した。重昌自身も板倉勢を率いて突撃を敢行し、銃弾の直撃を受け、自らも戦死を遂げた。



8. 願正寺 (がんしょうじ)
 当山は、浄土真宗大谷派 東護山願正寺と言い、天正十八年(1590年)に開基である了善法師が外神田に創建された。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外濠を造るため、延宝8年(1680)牛込原町に転じ、明治43年(1910)に現在の地へ移転した。 墓地には、外国奉行・新見豊前守正興とその父親で大阪町奉行を務めた新見正路の墓がある。新見豊前守は万延元年(1860)に、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って日米修好通商条約の批准書交換のため幕府使節団正使として、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗上野介忠順等とともに渡米して、国務長官のキャス(L. Cass)との間で批准書の交換を行っている。第15代アメリカ合衆国大統領 ジェームス・ブキャナンにも謁見している。 大正7年(1918)にモーリス駐日大使、昭和35年(1950)にはマッカーサー駐日大使が、日米修交の大役を果した新見正興の墓を参詣し、日米親善の記念樹を植えている。その記念樹は本堂前にある。また大阪夏の陣で幕府砲術方指南として活躍した井上外記正継の墓もある。







9. 宗清寺 (そうせいじ)
 宗清寺は江戸時代初期に旧港区芝松坂町に建立された曹洞宗の寺院で、都市計画による区画整理で、大正2年当地に移転してきた。都心では希少になった風格ある木造の山門、本堂、客殿と緑の庭園を有し、山門前の石柱には「宗清寺通称なが寺又たつ寺と云う」と刻まれている。墓地には、幕末の開明的な外国奉行だった水野忠徳の墓がある。

○ 水野忠徳( みずのただのり)
禄高500石の旗本だが、21歳のとき、優秀さを買われて、時の老中阿部正弘に抜擢され、西の丸目付に就任後、毎年のように出世し、火付盗賊改方役を経て、浦賀奉行、長崎奉行となる。 ロシア使節プチャーチン来航の際は全権筒井政憲・川路聖謨らを助け、爾来外交の一線で活躍した。日英和親条約をはじめ英・仏・蘭・露各国との通商条約交渉の全権となり調印する大役を果たした。また、神奈川開港地問題、通貨問題等、条約締結後の諸問題の解決にも全力で取組んだ。安政5年7月、新設の外国奉行となったが、翌年、ロシア士官暗殺事件が横浜で発生し、その対処に外国公使から強い抗議が向けられ、外国奉行を辞任して、軍艦奉行に左遷させられた。水野が更迭されたことで、悦んだのは、ハリス米国公使、オールコック英国公使で、水野によって抑えられていた外国為替の小判との交換量に制限を加えていた制約がはずされ、膨大な量の小判が海外に流出するようになって、諸物価は高騰し、経済は大混乱に陥ることに至った。文久元年(1861)5月、水野は外国奉行に再登用され、伊豆および小笠原諸島に赴き上陸して調査を進め小笠原を日本の領土とすることを宣言し、外国にも認めさせる歴史に残る成果を上げている。外交問題に関して幕府内で強力な発言力を有していたが、幕閣の老中安藤信正、久世広周らが支持していた長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」に反発をするなどして幕閣と相容れなくなり、箱館奉行にまた左遷された。翌年、隠居願いを出し、表舞台から退いて、幕末を多摩で迎え、そこで余生を送った。 享年59歳。


10.高徳寺 (こうとくじ)
 当山は真宗大谷派に属し、荒居山法喜院髙德寺と号する。当山開基は釋了智である。釋了智は鎌倉時代初期の武将で、名を佐々木高綱といった。源氏武士の家系で宇治川の合戦においては、梶原景季と先陣争いをしたことで知られ、功によって、備前国、 安芸国の守護を命ぜられた時もあった。鎌倉幕府成立後、武士の職を辞して出家し高野山にのぼる。その後、越後で親鸞聖人と偶然出遇い、本願念仏の教えを聞き伝える真宗門徒となった。後年、信濃国松本に正行寺(しょうぎょうじ)」を開基した。そののち代を経て上州荒居に移り「荒居山髙德寺」を建立した。当寺の中興の祖は釋宗信である。本願寺第十三世宜如上人に深く帰依して、元和2年に下総国相馬郡(千葉県久留里)豊田村に移った。その後、江戸浅草清島町に移る。明治41年に区画整理計画により現在地に移転し、太平洋戦争中に空襲に遭い、本堂・庫裡を全焼した。境内墓地内には江戸中期の朱子学者で近代思想家として有名な新井白石夫妻と一門の墓があり、都の旧跡に指定されている。 美容家・山野愛子、明治時代の女性記者・磯村春子(NHKはねこうまのモデル)、芸能家・沢村国太郎、長門裕之、南田洋子、落語家・柳家三亀松が眠っている。


11. 源通寺 (げんつうじ)
 浄土真宗大谷派の寺院。慶長15年(1610)創建。開基は信州松本城主小笠原長時の子の長隆(僧籍に入り釈祐尊となる)。当山には、江戸から明治に入り大活躍した劇作家・河竹黙阿弥の墓がある。○ 河竹黙阿弥は、通称吉村新七・二世河竹新七といい、安政元年(1854)脚本「吾妻下五十三駅」が大当たりして以来、市川左団次の専属作家となる。以降、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎の作も書き下ろし、人気作家として不動の存在となった。ヒット作には「児雷也豪傑物語」や「三人吉三廓初買」などがある。坪内逍遥は、黙阿弥を称して「真に江戸演劇の大問屋」と評している。






12. 正見寺 (しょうけんじ)
 浄土真宗本願寺派の寺院。足利時代の3代将軍義満の頃、現在の滋賀県栗田郡に創建された寺院であるが、江戸時代初期、江戸赤坂に移転して中興開山し、明治42年当地に再移転したと伝わる。当山には江戸三大美人と謳われた「笠森お仙」の墓がある。お仙は谷中感応寺(現・天王寺)境内の笠森稲荷門前の茶屋・鍵屋の娘で、明和年間(1764~72)江戸三人美女の随一と謳われ、流行唄、姿絵、芝居、狂言などでその名が登場するほどの人気を博した。一目見たい、逢いたいと江戸のみならず、近郷の村々からも評判を聞きつけた男たちがやって来たと云う。そのお仙を嫁にした男がいる。幕府御庭番の役人で倉地政之助で、2人の間では9人の子が出来たと云う。政之助はさぞ満足な一生を過ごしたことでしょう。