第28回 お江戸散策 井の頭公園・善福寺公園
 1. 三鷹八幡大神宮
 三鷹八幡大神宮は、この土地の名主・松井治兵衛が江戸の明暦の大火(振袖火事)で罹災して神田連雀町(現・須田町、淡路町)から入植した人々の鎮守として江戸幕府に誓願し、許可を得て、寛文4年(1664)4代将軍徳川家綱の世に創建された。御祭神は応神天皇で大分県の宇佐市にある八幡神の総本社・宇佐神宮と同じである。境内には、村の若者達が力を競ったという「力石」が奉納されており、その後方には文政3年に作られた石灯籠がある。楼門の左手には天然記念物に指定されているスダジイの巨木がある。毎年9月の大祭では100人近くで担ぐ大神輿が繰り出され、迫力のある大太鼓と共に盛大な祭りが展開される。別当寺は隣接している黄檗宗霊泉山禅林寺。また、付近の道路や敷地区画が整然としているのは江戸時代の短冊型の地割がそのまま今日まで続いた名残りである。
 2. 禅林寺
 明暦の大火により江戸から移住してきた人々が下連雀村の開村の際に、名主松井治兵衛は浄土真宗 の松の坊という庵室を建立した。この地に享保2年(1717)黄檗宗の僧梅嶺雲老が禅林寺として開山したことに始まる。黄檗宗は、唐の僧・黄檗希運(850年頃)の名に由来する。臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本の三禅宗の一つである。黄檗宗の堂宇は、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも明朝風様式を伝えている。総本山はインゲン豆を明から持ち込んだ隠元隆琦(いんげんりゅうき)の開いた黄檗山萬福寺(京都府宇治市)である。墓域には、文豪・森鴎外と彼を慕った太宰治の墓がある。森鴎外の墓は墨田区向島の弘福寺にあったが、関東大震災で被災を受けたことから、森家が大正12年(1923)当山に転墓したのである。太宰の墓は生前、鴎外を慕っていたことから、鴎外の墓の前に置かれている。また、昭和24年7月15日に起きた三鷹事件の遭難犠牲者の慰霊碑も境内左奥にある。


 3. 玉鹿石
  玉鹿石は青森県特産の銘石で、太宰治の故郷、津軽の金木町から産出されたモノを、太宰を偲んで玉川上水で入水した場所に置かれた。
  太宰治は本名:津島修治。青森県下有数の金融業を営む豪商の六男として金木町に生まれる。子どもの頃から学力優秀で、弘前高校卒業後、東京大学文学部に入学するが、中退し、井伏鱒二に師事し昭和11年(1936)小説「晩年」で認められた。戦争後、「ビヨンの妻」「斜陽」「桜桃」「走れメロス」などは高く評価され坂口安吾、織田作之助らとともに無頼派の代表作家と云われた。芥川賞受賞を強く希望して、審査員の佐藤春夫らに猟官(りょうかん)運動をするが受賞を逃した。敗残の青年に仮託された自画像とも云われる「人間失格」を残して、昭和23年6月19日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中した。遺体は昭和23年6月19日(誕生日でもある)に発見され、三鷹市の、自宅近くの禅林寺に埋葬された。禅林寺では、毎年6月19日に「桜桃忌」が開催され、当日は多くの太宰ファンが集まる。





4. 山本有三記念館
 山本有三。本名は勇造。小説家・劇作家。栃木市の富豪呉服商の長男に生まれ、跡継ぎとして家業を継ぐことを望まれるが、文学を志し、両親を説得して上京し、一高そして東京帝国大学独文学科に入る。在学中から「新思潮」創刊に参加し、菊池寛や芥川龍之介らと文芸家協会を結成して、広い社会的視野から人生を肯定的に描く小説「波」「女の一生」「真実一路」などを発表する。1937年、小説「路傍の石」を朝日新聞に連載するが、共産党との関係を疑われて、軍部から圧迫を受けるようになり、連載を中止に追い込まれる苦渋を味わった。そのような時代背景であったが、昭和16年(1941)には帝国芸術院会員に選ばれている。戦後、第1回参議院選挙に全国区から出馬して当選、議員として憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。近衛文麿とは一高時代の同級で親しく付き合ったと云う。




5. 井の頭弁財天(大盛寺)
 神田川の水源、井の頭の池に朱塗りの姿を映す弁天堂、その本坊が明静山圓光院大盛寺である。江戸時代神田上水の清涼で豊富な水は弁天様の御水として江戸城内の飲料水に供給され、神田、日本橋、芝神明さらには水船と称される運搬船によって墨田川を渡り本所、深川界隈にまで生活用水として送られていた。御水の恩恵を戴いていた将軍家や江戸下町庶民からの篤い弁才天信仰もあって寺勢は大いに盛んであった。その信仰は深く、将軍家光による弁天堂(大正13年焼失)の造営であり、池辺の石造文化財十数点は総て江戸下町の人びとが弁天様へ寄進したものであることからも窺い知ることができる。また弁天様が技芸、音曲をも司ると云われていることから中村勘三郎、瀬川菊之丞ほか大勢の江戸歌舞伎役者の信仰も集めた。浮世絵師・歌川広重も度々参詣に訪れては四季折々の弁天堂を描いている。






6、井の頭恩賜公園
 井の頭恩賜公園には大きな湧水池があり、7ケ所から湧き出てできた池は、広さ148,500m2もある。この池は江戸時代から神田上水の水源として利用され、江戸市民の命水であった。徳川家康が鷹狩りの折り訪れたときに、この湧水で茶をたて、その甘美で清らかな味を絶賛したと云う。その湧水は池の西端にあり、現在、湧水は枯れていないが、近くの井戸から引いて往時を再現している。3代家光が遊猟で訪れたときコブシに小柄で「井の頭」の3文字を刻み、それ以来この地を「井の頭」と呼ぶようになったと云う。公園には、400本の桜があり、桜の名所として知られ、満開期には池にまで枝を伸ばして、水面に映った見事な光景を見ることができる。その他、ナラ、クヌギ、栗など、武蔵野の雑木林があり、森林浴を楽しむ人達も多い。また、水族館、遊園地、動物園もあり、1日家族でゆっくり楽しめる公園でもある。






7、四軒寺
 吉祥寺の安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺を総称して「四軒寺」と呼ばれている。吉祥寺は古くからの寺町でこの四つの寺は、武蔵野八幡宮付近に集まっている。近くの吉祥寺通りと女子大通りの交差点は「四軒寺」と名づけられている。

【月窓寺】万治2年(1659)開山。曹洞宗。吉祥寺の開村とともに開かれる。本堂左脇にある観音堂に安置されている白衣観音坐像は、武蔵野市内最古の銘(元禄二年)を持ち、近世作例としては珍しい乾漆づくりである。

【蓮乗寺】日蓮宗。この寺の本堂正面に安置されている日蓮上人の像は木製の坐像で右手にしゃく、左手に経文の巻物をもっている。「厄除日蓮」とよばれ厄年男女の守り本尊として有名である。

【安養寺】寛永元年(1624)開山。真言宗。梵鐘は、江戸時代の作で、龍頭の二本の角がその特色を示している。梵鐘の表面には多くの刻銘があり、武蔵野地域の鋳物師の存在を知る資料としても貴重。門前には庚申供養塔や六地蔵がある。

【光専寺】浄土宗。享保の頃、この地に疫病が流行した際、住職が子供たちの供養と延命を祈願して、箪笥を改造した厨子に納めて巡礼したと伝えられている。「箪笥地蔵」の像がある。

〇 吉祥寺は元々、神田駿河台にあった。寺は明暦の大火後に駒込へ移転したが、寺町に住んでいた人たちの同行移住は許されず、住民たちはこの地に移り住んだ。彼らは吉祥寺を慕っていたことから、この地を吉祥寺と呼ぶようになり、そのまま地名になった。吉祥寺という名前のお寺は武蔵野市には存在しない。





8、武蔵野八幡宮
武蔵野八幡宮は延暦8年(789)に坂上田村麻呂が宇佐八幡宮から分霊を勧請したと伝えられ、寛文年間(1661~73)初め、吉祥寺村開村により、村民の氏神として信仰を集めてきた。例大祭(9月15日)には、吉祥寺囃子連中により伝承されてきた無形民俗文化財「むさしのばやし」が催される。境内からは、都内では希少な考古資料の蕨(わらび)手刀(てがたな)(推定7世紀~8世紀頃の制作)と建武2年(1335)以降の板碑数点が出土している。

9、 東京女子大学
北米プロテスタント諸会派により「女子の大学教育の場を」という趣旨のもと、設立準備委員会が組織され、「キリスト教主義に基づくリベラルアーツ教育」の場として1918年(大正7年)設立。後の駐日米大使E.O.ライシャワーの父A.Kライシャワーも設立準備委員の1人であった。初代学長新渡戸稲造。新渡戸は札幌農学校在学時に受洗。キリスト教信者であり、国際的視野を持つ一流の学者で女子教育に理解を持っていたことから学長に選任された。「豊かな教養に基づく幅広い視野と高い専門性を身につけ自立した女性を育てたい」という開学時の精神はいまも受け継がれている。キャンパス内には文化庁登録有形文化財として歴史的建造物が7件存在し、今も使われている。(チャペルと講堂・東校舎・西校舎・本館・ライシャワー館・外国人教師館・安井記念館)いずれもアントニン・レーモンド設計。レーモンドはチェコ出身の建築家。帝国ホテルの設計者のフランク・ロイド・ライトのもとで学び、ロイドが帝国ホテルを建設する際来日。東京女子大学の設計にあたった。
10. 善福寺池
 善福寺池は、井の頭池、妙正寺池とともに武蔵野3大湧水池の1つに数えられている。この湧水には源頼朝の伝説が伝わっている。奥州藤原氏征伐に向かう頼朝一行はこの地に立ち寄り宿陣したが、当時のこの辺りは荒野で、しかも日照りが続いている頃であった。水脈は見つからず将兵たちは喉の渇きを訴えていた。その様子を見た頼朝は、傍らにあった弁財天に祈り、自らの弓で、7ケ所を掘ったところ、見事、水が湧き出てきたと云う。ただし、その湧き出る水が遅かったので、「遅井野」と名付けられこの辺りの地名になったと云う。これが善福寺の起源伝説で、頼朝が祈った弁財天は、善福寺弁財天と呼ばれ、雨乞いの神社として祀られている。また、この池は、井之頭池の補完池となっており、下流では神田川に合流して、人口の増加で、水需要の高まる江戸市民の生活に役立ってきた。

11. 善福寺
 江戸時代、文政11年(1828)に完成した「新編武蔵風土記稿」によると、善福寺池の西側丘陵に、万福寺、善福寺という二ケ寺があったが地震で堂宇が倒壊し、いつ頃か廃絶してしまったと云う。この善福寺が池の名になったと伝わる。また、近くに、浄土宗の福寿庵という小庵があり、この小庵は後に観泉寺の末寺となり、曹洞宗の寺院になっている。そして、昭和17年に善福寺と改称して今日に至っている。それが当山である。したがって、当山の善福寺は池の名には無関係ということになるが、一方、当山に小庵の頃から遺(のこ)される机には「文化12年・・・無量山善福寺福寿庵」と記述されていることから、「福寿庵が池の名にゆかりがある」との主張も残されている。
12.  井草八幡宮
 この地域は縄文時代の住居跡や多くの土器・石器が発掘されており、中でも顔面取手付土器には火を灯した跡があり、何らかの祭礼・儀礼に用いたと思われ、ここは神聖な地であった云われています。鎌倉時代に入り文治5年(1189)に源頼朝が奥州征伐に向かう途中戦勝祈願を行っています。その願いが叶って頼朝公が自ら松を植樹しています。室町時代には太田道灌が石神井城の豪族・豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝祈願をしたことも伝わっています。江戸時代になると、第3代将軍家光により朱印領6石が寄進され、この後、歴代将軍が朱印地を寄進して桜田門外事件のあった万延元年まで続いています。この地域の地頭であった今川氏も当社を深く崇敬し調度品などを奉納して興隆に努め、寛文4年(1664)に寺社奉行の命によって改築した本殿は現在、杉並区で最も古い木造建築物です。祭事は3年毎に神輿の渡御、5年毎に流鏑馬神事が行われています。


13. 明治天皇小休所
 徳川家康が、奥多摩・秩父方面から江戸城の城壁資材の採掘させ、運ぶために開かせた青梅街道は甲州街道の裏街道としても利用され、杉並の荻窪村も将軍そして、明治に入ってから明治天皇の行幸にしばしば利用されていた。明治天皇小休所は、明治天皇が明治16年(1883)4月16日に小金井の観桜会への途次の二度に亘ってご休息した跡である。以来、明治末期まで、侍従らによる小金井観桜遠乗会は毎年行われ、必ずここに立ち寄っている。明治天皇小休所の西側に並んである江戸時代に建てられた長屋門は第11代将軍 家斉が寛政年間、鷹狩りの際、たびたび休憩した場所である。しかし、「名家とは言えども将軍が民家に立ち寄るのでは威光に関わる」と特別に作らせたのが武家長屋門である。どちらも旧下荻窪村名主中田家のもので、昭和62年(1987)邸宅跡地に復元された。
 以下は、散策予定していたが割愛したところ


観泉寺
 観泉寺は、慶長2年(1597)に戦国大名今川義元の子、を開基として、下井草に建立された。この時の寺名は観音寺であったが、後に、現在地に移転して観泉寺となった。江戸幕府3代将軍徳川家光のとき、の孫今川のちに直房)が高家として幕府に仕え、東照大権現宮号の宣下に際して、朝廷への使者として功績をあげ、上・下井草村を加増された。高家とは、幕府の儀礼に関する諸事を司る役職で、吉良、今川、畠山など古来の名家が任ぜられ、石高は1万石以下であるが、官位は大名に準ずる厚遇を授かった。江戸時代を通じて、この一帯を今川氏の知行地であったことから、今川の町名が現在でも残っている。堂宇の本堂、観音堂、秋葉堂などは近年改修されたが、江戸時代の建築を遺してあり貴重なものである。墓所には、今川家累代の墓碑20基が並んでいる。今川家は、戦国時代の有力大名・今川義元が、桶狭間で織田信長の奇襲に遭って討ち死にしたあと、子の氏真の代で歴史から消えたと思われたが、義元の孫の代で、かっては、今川の人質だった徳川家康に救われ、家臣となって幕府の重要役職を授かって、明治に至るまで家名は存続していたのである。