世の中、外は北朝鮮とトランプの舌戦による一触即発の不安、内は安部首相の大義名分乏しい衆議院解散で一挙に政局が慌ただしくなっている中、恒例の第30回 お江戸散策杉並の古社・古刹めぐりを実施しました。10月5日(木)9:30、井の頭線西永福駅に集合し、最初の散策地大宮八幡宮に向けてスタート。西永福の商店街を抜け、井の頭通りに出て、これを横断し、方南通りを100m程進むと、八幡宮の南参道に着く。この参道から東京のへそ・子育厄除の大宮八幡宮を参詣することとした。当社は平安時代の康平6年(1063)に創建された古社である。神門を入ると総檜造りのご本殿(拝殿)が鎮座していて、荘厳な雰囲気を漂わせている。本殿の前には菩提樹の古木や樹齢500年の大公孫樹が聳えていて威容を醸し出している。境内は広大で15,000坪もあり、正参道は両脇に躑躅が植えられ、神殿までの長さは300mもあるという。参詣後は本殿西側にあり、方形周溝墓が発見された大宮遺跡や群立する竹林を観賞して次の散策地に向かう(つづく)
大宮八幡宮
 再び方南通りに出て、大宮八幡宮の交差点を横断して、数10m行った所の路地を左折して住宅地を道なりに進む。すると鬱蒼と樹木が生い茂った寺院が見えてくる。曹洞宗大圓寺である。当山は明治に入り港区伊皿子から移転してきた古刹で、江戸期は薩摩藩島津家の菩提寺であったと云う。島津家は宗旨替えをして神道になったため、今日、藩主の墓はないが島津家を支えた藩士達の墓は残されている。その他、小大名・保科家の立派な墓も遺されている。大圓寺を出て左に折れて1本目の路地を道なりに進むと神田川にでる。川の流れを眺めながら、沿って進むと”みたらしだんご”ののぼりを掲げた小さな店があった。中をのぞくと、主人が出てきて、”いま団子が出来たところだ”と言う。早速、買って団子を食べながら小休止を取った。”美味しい”。振り返って見れば、今まで何回も散策を行ってきたが、途中で間食したことはほとんどなかった。今後はこの”おやつタイム”を取り込みたいと思いました。
大圓寺
御団子休憩
 公園で休憩をしてから、再び神田川に沿って進むと、国道環状7号線でる。これを横断して50mほど行った道を左折してしばらく行くと古刹・東運寺がある。この寺の本堂屋根には伝説に因んで大きな釜が置かれている。このことから通称「釜寺」と呼ばれているそうだ。 釜寺を出て、道路を挟んだ東側には縄文時代の遺跡が発見された釜寺東遺跡があり、ここで、しばし見学休憩を取った。釜寺東遺跡の北側の道路に出ると住宅地が続いている。北に向かって道なりに行くと、また神田川に出た。川の対面には巨大な建物が立ちはだかるように立っている。立正佼成会の普門館や大聖堂だ。フリーで内部に入れるというので、大聖堂の中を見学させていただくことにした。大ホールで大きな仏像を拝観し、屋上から新宿副都心の展望を眺めさせてもらい、ついでに大食堂でランチもさせていただいた。 しばし休憩を十分に取ってから、次の散策地妙法寺に向かった。 (つづく)
東運寺
立正佼成会
妙法寺は江戸時代から、「堀之内のお祖師さま」として親しまれ、文芸本や落語にも登場して、浅草の浅草寺に並ぶ人気寺院ととして賑わいを見せた所です。江戸時代に建てられたという山門(仁王門)には、獅子・龍などの彫刻が絢爛に施され、阿形・吽形の金剛力士像(仁王)が、「穢れある者は通さない」とばかりの形相で隆立している。門をくぐると祖師堂があり、内部は荘厳が煌びやかに飾られている。気軽に見学できるので拝観させていただいた。廊下づたいに進むと本堂(三軌道)があり、堂内には「おそっさま」とと呼ばれて敬愛されている祖師像が安置されている。その奥の日朝堂には学問と眼病の守護として崇められるている日朝上人像、二十三夜堂には二十三日の夜、月待をすれば願い事が叶うとされる二十三夜尊が安置されている。その他、境内には、近隣に住んでいてクリスチャンんでありながら、この妙法寺を愛していた有吉佐和子の碑、重要文化財に指定されている建築家ジョサイアコンドルが意匠した鉄門がある。(つづく)
妙法寺
本堂(三軌堂)ほんどう-さんきどう
 祖師堂の北東奥にあるのが「本堂」で、三軌堂とも称され、主に檀家の方々の法要行事等が営まれます。「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表しています。正面に奉安されている「おそっさま」は、昔、出開帳といって多くの人々がお参りできるように他所に持ち出された祖師像です。左側に奉安されている立像は「旭が森のおそっさま」で、清澄の旭が森で朝日に向かい御題目を唱えた姿を現しています。文政2年(1819)に建立された本堂は、絢爛さが目を引く祖師堂と対照的に、落ち着いたたたずまいをみせています。 

日朝堂 (にっちょうどう)
 本堂の左奥に建つ「日朝堂」は、文政11年(1828)第二十世日憲上人代に創立され、身延山十一世行学院日朝上人の御尊像が奉安されています。室町時代、多くの学業を成し遂げた日朝上人は、眼病を患うほど勉学に精進されました。回復後、ご自身と同じように眼病を患った人々を救いたいと大願をたてたことから、「学問と眼病の守護」としても崇められるようになりました。また、日朝上人が稀世の学匠として高名であったことから、学業増進・受験合格等、勉学の願いが叶えられることで有名になりました。
  妙法寺を後にして、再び環七通り出て、北に200m余り行くと左手に宗延寺がある。この寺には、若年寄 稲葉正休の墓がある。正休は江戸城殿中に於いて大老 堀田正俊を暗殺した人物で、殺害した直後、周りにいた他の老中たちに打ち取られ即死したため、犯人、被害者から何の供述も得られなかった。そのため、事件は未だ謎と云われているのである。赤穂浪士事件よりミステリーな一面があるのだ。宗延寺墓地から100mほど西に行くと修行寺がある。この寺には犬山城主成瀬家の墓がある。成瀬正成は、家康の直参で、徳川御三家・尾張徳川家が出来たとき御付家老としてその任に就き、以後代々尾張徳川家を支えた忠臣で、成瀬家は明治以降も生き残り、今日でも犬山城の所有者になっている。もと来た道を引き返し、再び環七通りに出てすぐ左側に真盛寺がある。真盛寺は通称三井寺とも呼ばれ、三井越後屋の菩提寺となっている。墓域には、三井家当主や番頭たちの墓がある。また、その一角に、幕末から明治に架けて、江戸、大阪の多くの大店が倒産して没落した中、三井を苦境から救い、三菱に並ぶ豪商として繁栄をもたらした最大の功労者、三野村利左エ門の墓がある。墓の大きさからも三野村が三井の中で如何に遇されていたか想定できる。真盛寺を出て、環七通りを横断して、しばらく北上すると右手に樹木が生い茂った公園にでる。蚕糸の森公園である。この公園でしばし休息ののち、公園に面した青梅街道を新宿方面に歩き、東高円寺バス停から、次の散策地、宝仙寺前に向かう。(つづく)
宗延寺
修行寺
真盛寺
蚕糸公園
 東高円寺から7つ目のバス停宝仙寺前にて下車。バス停を先に少し歩くと左手に宝仙寺三重搭が見える。真言宗宝仙寺は、将軍が鷹狩りをした際の休息所として利用されたり、住持が将軍の御前論議に参加できる待遇を得るなど、将軍家の手厚い庇護を受けたことから大いに隆盛した。境内の伽藍も充実していて、本堂、三重搭、御影堂、大書院、仁王門など見どころが多い。また、当山の寺領内で、現在、朝日ケ丘公園になっている所は八代将軍 吉宗の時代、ベトナムからやって来た像が飼育されていて、江戸庶民が多勢見物にやって来たと云われている。そのおかげで宝仙寺は参詣者が増え、大いに潤ったと云われている。ここで本日の散策はお開きとし、中野坂上駅前の居酒屋で反省会を開き、そのあと痛飲して楽しい1日を締め括った。(石井義文)
宝仙寺
 〔懇親会〕
                  おつかれさまでした!!              
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